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熱気があふれる選手控え室。
そこは熱と汗臭さと、緊迫した空気が漂っているちょっとした異界であった。
俺は目の前の、薄茶色のサングラスをかけたリーゼント頭の男が持ったミット目掛けて、パンチを放つ。
左ジャブを高速で二発、その後、全体重を乗せた右ストレートを打ち抜く。
すぱん! と小気味よい音が部屋に鳴り響き、右手に持ったミットごと、男の体が後ろへよろめいた。
「よし! ええ感じや竜也! チャンピオンベルトはもう目の前や!」
「おう! 絶対に勝つ!」
堅気に見えない男、セコンドの置田吉紀が激励の言葉をかけながら、俺の胸をミットをはめた手で軽く小突く。
それに呼応するように、俺は自分自身を鼓舞した。
後ろから長身のトレーナーの男が歩みより、俺の上半身に浮かんだ微かな汗を、丁寧にバスタオルでふき取っていく。
「俺は日本チャンピオンにはなれなかった。東島、お前が俺の果たせなかった夢を叶えてくれ」
「ああ、任せとけ! 小野木さん!」
トレーナーの男、小野木則昭は十年前、重量級のプロボクシング選手であった。人並外れた強打パンチャーであったが、自身の拳がその衝撃に耐えきれず、結局骨折癖を克服することなく引退した。
俺も階級は違えど、小野木さんと同じハードパンチャーである。必殺の右ストレート。それを武器にここまで、チャンピオンの首に食らいつく寸前にまで上り詰めた。
小野木さんには感謝しているぜ。自分と同じ轍を踏まないよう、拳のケアを徹底してやってくれたからな。彼のサポートがなければ、俺はここまで辿り着くことはできなかったはずだ。
俺は、そんな口には出せない小っ恥ずかしい思いを胸の内に秘め、パイプ椅子に座った。
壁にかけられている時計に目を向ける。前座の試合が始まって、三十分が経過していた。
判定までいかないのであれば、そろそろ決着がついてもおかしくない時間だ。
前座が終われば、次は俺の試合。すなわち、俺がチャンピオンベルトをもぎ取るための殴り合いが始まるのだ。
……貧乏揺すり、じゃねえや、武者震いが止まらねえ。
当然だ、数十分後には俺が日本一強い男であることが証明されているんだからな。
早く、はやく、ハヤク、試合がしてえ……。震えが、止まらねえんだ。
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