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「あ、髪伸びてる」
リビングですれ違った瞬間、直哉がふと呟いた。そういえばこの前、原稿の締切が終わったっけと思い出す。
「そうですか?」
「ちょっとな」
確かめるように、直哉が襟足を触った。すると和也が少しくすぐったそうに身をすくめる。
「切りに行かないといけませんね」
「いつもどこで切ってもらってんの?」
「え、自分でですけど……」
直哉は、目の前の男の年齢を思い出すために頬を掻いてみた。記憶に間違いがなければ、三十に差し掛かろうといういい年をした大人だ。
「和也、美容院くらい行こうぜ」
「いや、どうせそんな変わりませんし」
「いやいや……」
思い返せば、どこの美容院に行ったのかと疑うほど酷い切り方のときがあった。あれはそういう訳だったのかと、直哉は納得する。
「せめて床屋だな」
「この時代に床屋なんてあるんですかね?」
「さぁな」
少し興味が湧いたので、手元のスマホで検索してみた。すると一軒だけ、家から歩いて三十分ほどの小さな駅にあるのを見つけた。
「ほら、ここ行きゃいいじゃん」
「でも……」
「まだ言うか」
それでもウダウダしている和也に、直哉は魔法の言葉をかける。
「今度のデート、素人のザンバラよりプロのカットでカッコよくなった和也が見てぇな」
トドメにニコっと笑って見せれば、これで和也は黙り込む。デートという言葉を強調すれば、もう和也には選択肢は残っていなかった。
「明日、行ってきます」
「そうか」
思惑がうまく行き、直哉はひとりほくそ笑む。リビングに戻ろうとすると、和也が思いついたように呼び止めた。
「直哉さん」
「ん?」
「直哉さんはどんな髪型が、好みですか?」
一瞬だけキョトンとした顔をすると、片頬を釣り上げて和也に近づく。その首に手を回して、耳元に口元を寄せた。
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