海を彷徨うもの

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昭和のある冬、作家の重塚忠昭は紀伊半島の海沿いの町を訪れた。 そもそもは取材旅行と銘打って西日本を巡っていて、その途中でここ紀州にも立ち寄ったのだ。 すっかり夜は更け、重塚の泊まっている民宿の外壁には熊野灘からの風が、びょうびょうと吹きつけている。 ちょうど今、重塚の泊まる客間には宿の主人が訪れているところだった。 重塚が何かこの地にまつわる怪談を聞かせよとせがんだのだ。 仕事を終えてきた主人に重塚は先ず酒を勧めたが、自分は下戸だからと遠慮するばかりだった。 ブリキのストーブの上では薬缶が蒸気を吐きながらカタカタと音を立てている。 そして、ぽつぽつと怪談は始まった。 「まだ若かった頃、海で一度だけ恐ろしいものを見ましたな」 この寂れた宿の主人も、若い時分には熊野の海で漁師をやっていたと言うのだ。 「ほう、それは?」 「旦那さんは、補陀落(ふだらく)の話は聞いたことありますか?」 重塚は顎に手をやって、ふうん、と唸った。 「何かで読んだ事がありますな、確か仏教で謂う所の浄土というやつでしょう?」 「はい、さようで。西方には阿弥陀さんの極楽浄土があり、東方には薬師さんの瑠璃光浄土がある。そして南方には・・・。」 「観音様の補陀落がある・・・。そういう話ですな。」 主人は重塚の言葉に頷くと話を続けた。 「昔はこの辺では、その海の向こうにある補陀落を目指すという信仰があったんです・・・。修行を達して寿命を終えた偉い坊さんの亡骸を、小舟に乗せて浜から南方へと送り出すんですな。」 重塚は記憶を辿った。確かに自分が読んだ文献には主人の言葉と同じ事が書かれていたはずだ。
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