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とにかくここから離れたほうがいい。
影がない人間など存在するはずがないし、おそらくは自分の見間違いに過ぎないのだろうとAは言う。
それでも……。
友人に連絡をして、待ち合わせの場所を変えようとAは考えた。
そしてスマホをポケットにしまい、どこかに移動しようとしたとき――
下を向けた視界に、入り込んできたのだ。
白い、裸足のつま先が。
Aが息をのんだ。無意識のうちに全身がぶるりと震えた。
ゆっくりと、顔をあげる。
あの女が、目の前にいた。
長い黒髪の奥の、白目の部分が大きい瞳がAをじいっと見つめている。
小さな黒目はAに焦点を合わせたまま微動だにしなかったという。
墨汁を落とし込んだように深い黒が、濁った白目の中心に穴があいたように据えられていた。
「私が見えるのね」
声が、耳の奥に反響する。
低く濁った、濡れたドロを踏みつけるような音だったとAは言った。
逃げなくてはいけない。
けれどAの足は凍り付いたみたいに動かない。
「私が見えるなら……。次はあなたの番」
すうっと、白く細い手のひらがAの腕をつかんだ。
その冷たさに思わず身を引こうとした瞬間、女は信じられないほどの強い力でAを道路に引っ張り込んだ。
「うわっ!」
慌てて足を踏ん張ってこらえたが、女はそのまま通りを走るバスの前に飛び込んだ。
交差点にクラクションの音が響き渡り、そしてAの目の前に車が――。
――ドシン、という嫌な音と、あの女の笑い声。
それがAの交差点での最後の記憶だという。
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