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ドアの前で抱かれた後、香は井上に横抱きにされて風呂場に連れて行かれた。
受付や部屋と同じく古いが掃除の行き届きた風呂では、井上は打って変わって優しく情事の後始末をしてくれた。香の中に出された井上の残滓を、懇切丁寧に洗ってくれたのだ。ごめんね――とすまなそうに繰り返して。
二人ともきれいになって、やっとベッドに入った。といっても、ベッドに横たえられたのは香だけで、井上はベッドの端に座っている。二人ともホテル備え付けの安っぽい部屋着なのに、井上は頑なに香の隣、ベッドの中に入ってこない。
井上は浅く腰かけ、香に背を向けている。その背は――気の毒になるほど丸まっていた。
「……本当に、ごめん。あんな乱暴な真似して……ひどいこともいっぱい言ったし」
井上は、賢者タイムからの反省タイム中だった。怒りと性欲に任せ、好き勝手に香を抱いてしまったと、最中に暴言を吐いてしまったと猛省しきりだ。
「しかも……生で中出しって……」
井上が両手で顔を覆う。優しい井上は決してふざけておらず、心底落ち込んでいるのだが、香は小さく笑ってしまった。丸まった背にそっと手を伸ばす。
「稜、俺なら平気だって。それに……お風呂できれいにしてくれたでしょ?」
「乱暴にした後に優しくするって、まんまDV男じゃん。……俺、性犯罪者になった気分だ」
「それはちょっと違うんじゃない? 稜も知ってると思うけど、常習のレイプ犯は証拠を残さないように、生で中出しなんてしないから」
「どういうフォロー?!」
井上が怒って香を振り返る。大好きな人が自分を見てくれた。香は嬉しくなって笑顔になった。
「やっとこっち見た」
「……そんなに優しくしないでよ。この後にフラれたら……一生立ち直れない」
「俺は稜をフる気なんかないよ。それに……ああいうのも、たまになら俺、嫌いじゃないよ?」
香は思いっきり甘えた上目遣いで井上を見た。わかりやすいブリッコだが、井上は嫌いじゃないのかだらしなく鼻の下を伸ばした。
「……香のエッチ。でも俺は……乱暴なのよりイチャラブがいい」
優しい井上には、それが本心だろう。いつも身も心も溶けてしまうほど優しく、甘く抱かれている。
香は優しい井上が大好きだ。怖い井上も魅力的だが、やはり井上の本質は温かく、優しい。そこになにより惹かれる。
「うちの基本はイチャラブでしょ? 稜はいっつも優しいもん」
乱暴に抱かれた後とは思えないほど、香の心は穏やかで素直だった。井上への純粋な思いがスラスラと出てくる。激しく責め立てられ、本音を吐き出せたからだろうか。
香の心を表しているのだろう、その表情はずっと笑顔だ。つられたのか移ったのか、申し訳なさそうにしていた井上も、まだぎこちないが笑みを浮かべた。
「香は本当に……優しいし格好いいし……きれいで頭もいいし……前にも言ったけど、コンプレックスを刺激されまくるんだ。それが時々しんどくなるけど……やっぱり香が好きで、嫌われたくないし……離れたくないって思う」
井上の手が香の頬に触れる。壊れ物を触るような手つきに愛しさがこみ上げ、香は自らその温かい手のひらに頬を擦りつけた。
「俺、稜にそんな風に言ってもらえるほど立派な男じゃないよ。でも……嬉しい。稜がまだ俺のこと好きでいてくれて……離れたくないって思ってくれて。俺も、この手を離したくない」
温かい指に唇で触れると、井上は嬉しそうに香の唇を何度も優しくなぞった。心と体に温かい愛情が満ちていく。
「ねぇ稜、恋人の欲目じゃなくって、稜はイイ男だよ。稜が離婚して、本部の女性警官何人かが本気で色めき立ったの、俺知ってるんだから。それに見た目だけじゃなく、性格だっていいし、仕事だって出来る。それなのにどうして、そんな風にコンプレックスを持つの?」
井上が素直に思いを話してくれるから、香も正直に訊ねた。すると井上は少し困った顔をしたが、嫌がらずに答えてくれた。
「やっぱり……離婚がデカいかな。ほんっと情けないけど、元妻から離婚を切り出されるまで、俺の家庭は順調だって思い込んでた。うちは家族仲良しで、夫婦仲も円満って信じてたんだ、なんの根拠もなく。だからいきなり離婚を突きつけられて、今までの自分を全否定された気がしたんだよな……」
井上は話しながら自分の思いを見つめ直しているようだった。香に答えてはいるが、自分自身と対話しているようにも見えた。
香は兼ねてからの不安が強くなって、それも井上にぶつけてみることにした。
「……前から気になってたんだけど、稜が引きずってるのって……離婚そのもの? それともやっぱり、別れた奥さんに今でも未練があるの? 俺と付き合ったの、離婚のショックのせいでとち狂ったからなのかな?」
香は今ならなんでも訊ける気がした。どんな問いにも井上は怒らなかったが、質問自体は見当違いだと声を立てて笑われる。
「これも前に言った? 別れた奥さんには、未練なんかないよ。てゆうか、なんの気持ちもない。……香と付き合ったのは、香に惚れたからに決まってるじゃん。俺の気持ちを疑うのだけは勘弁してね。それだけは……怒るよ」
井上が香の頬をムニュッと摘まむ。まったく痛くないが、わざとイタッ! と声を上げた。そうすると、井上がなにくれるかわかっているから――。
井上は優しく、ごめんね、と言って香の頬にキスをした。
香が井上を見つめる。目が合えば、唇にキスを落とされる。
触れるだけの短いキスが終わると、今度は井上が見当違いな質問を寄こした。
「香こそ……本当に俺でいいの? 給料バレてると思うけど、俺、マジで金ないよ。養育費があと何十年もかかるし。それに香は俺のこと性格がいいって言ってくれるけど、コンプレックス強めな上に嫉妬深いし……」
「怒るとセックスが激しくなるし?」
香がイタズラっぽい視線を向けると、井上が冗談ですまなくなるほど肩を落とした。
「それは……シャレにならないって。本当に反省してるんだから」
「全然イヤじゃなかったし、体も平気だってば。それに……怒ってる稜って、セクシーが二倍増しで、ちょっと刺激的すぎるぐらい……たまんなかったよ?」
手を伸ばし、井上の太ももに触れる。逞しい筋肉にウットリしながら撫で、濡れた目で井上を見上げる。
視線がぶつかると、井上もすでにまた情欲で濡れた目をしていた。ドアの前で抱き合って、風呂場でも触れ合って――それでも足りない。
互いの全てが、いつもいつでも欲しい。二人とも、深刻な愛の病を抱えているのだ。
井上の顔が近づいてくる。口づけを待ち望む香は素直に目を閉じた。
甘く淫らな空気が狭い部屋に満ちる。そんなムードの中で――グーッと鳴いたのは、香の腹の虫だった。
キスする直前で香の薄茶の目がパチッと開く。井上のクッキリ二重の目も丸く開かれ、目が合った二人は同時に噴き出した。
「……ご、ごめん! お腹空いちゃって……」
「いや……そういえば俺も腹空いてきたかも」
優しい井上は笑いを堪えていた。いい雰囲気は壊してしまったが、二人の間に流れる空気は変わらずに甘く優しい。
「そういえば……」
香は自分の腹の虫で思い出した。少し前の話を。
「本部庁舎の近くにできたスープカレー屋にまだ行けてないんだった。……稜、今から行かない? ランチタイム過ぎちゃったけどやってないかな」
そう話しながら体を起こす。店の情報を調べるためスマートフォンを取りにいこうと思ったが、井上が難しい顔をしているのに気づいて彼の隣に座った。
「……どうしたの? カレーって気分じゃなかった?」
「いや……そうじゃなくて……笑わないでね」
急に神妙になった井上に香が首を傾げる。
「スープカレーって辛いよね?」
「え? うん。カレーだからね」
「……甘口、とかあるのかな」
香はやっと井上の真意を理解した。そしてつい、笑ってしまった。
「稜、もしかして辛いの苦手だった?」
「笑わないでって言ったじゃん。……そうだよ、俺、この顔で辛いの大の苦手なの。家のカレーもいつも甘口だったし」
「顔は関係ないと思うけど……ちょっと意外。そんな風に見えないから。でも言われてみれば、庁舎の食堂でも稜がカレー食べてるのって見たことない」
「いい年して甘口カレーしか食べられないから、外ではカレー食べないんだよ。あーあ、また香に格好悪いとこ知られちゃった」
井上が盛大にムクれる。その顔こそ子供っぽくて――可愛くて愛しくてたまらなかった。香は井上にギュッと抱きついた。
「香? ……呆れた?」
「そんなことで呆れたりしないよ。格好悪いなんて思ってない。むしろ……可愛くてたまんない」
「……可愛いとか、嬉しくないし」
そう不満を言いつつも、井上の顔はさっきよりニヤけていた。可愛いと言われて喜ぶのはオジサン臭いぞ、と思ったが黙っていた。それすらも愛しく感じたからだ。
「ねぇ、稜」
香は自分もニヤけそうになるのを堪え、少し真面目に恋人を呼んだ。
「こうやってさ、なんでも話そうよ。辛いのが苦手とか、コンプレックス強めとか……別れた奥さんが気になっちゃうとか、思ってること感じてること全部。俺はストレートの稜が俺を好きになってくれたこと、今でも不安に感じることがあるし、そのせいで稜に素直な気持ちを言えなくなることもあるけど……俺たちの思いの根底は同じだよね?」
好き――。二人が互いに抱く気持ちはまったく同じはずだ。
認めるように、井上がうんと優しく、甘く微笑む。
「……だね。美人でモテモテの彼氏に嫉妬全開だけど、それでもやっぱり好きな人が俺の隣で笑ってくれると、それだけで嬉しいし……他のことはどうでもよくなる。香が好きだって、いつも思ってる。それを意地張って誤魔化そうとするから、ややこしくなるんだよな」
井上が両手で香の頬を優しく包む。なにかを確かめるように、井上は香の頬を何度も撫でた。
愛情は十分過ぎるほど伝わってくるが、子供にするようなその仕草だけじゃ物足りなくて、香は願いを込めて目を閉じた。
願いはすぐに叶えられた。優しくキスをされて。
その後も何度か香の腹が鳴ったが――二人の耳には届かない。もうなにも、二人の邪魔はできなかった。
コンプレックスも、嫉妬も不安も今は忘れて――素直になって愛し合う二人だけがそこにいた。
◇◇◇◇◇
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