エピローグ

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エピローグ

数日後。香は本部捜査一課で仕事をしていた。朝からずっと事務仕事をこなし、パソコンに向かう横顔は生真面目で完璧主義な管理官そのものだが、時計が昼に近づくにつれ、わずかに緩みはじめた。 ディスプレイの右下の時刻表示を何度も見てしまう。その後にジャケットの胸ポケットからスマートフォンを引っ張り出すと、小さな画面を操作しては落ち着かなくなった。 画面には近くのカレーショップのクーポン。それを見て口元を緩ませると、次にメールの画面を眺めて冷静沈着な管理官の仮面がペラリと剥がれ落ちた。ニヤニヤが止まらなくなった。 ニヤけているうちに昼を知らせるチャイムが鳴った。香は急いでパソコンの電源を落とし、席を立つ。チラリと離れた席を見ると、三係の自席で仕事していた井上も、香と同じように立ち上がってパソコンの電源を落としていた。 香は電源が落ちるのを待ちきれず、辛うじて画面が暗くなったところで席を離れ、廊下に向かった。井上も香の動きを遠くで窺っていたのだろう、捜査一課のフロアを出るタイミングがバッチリ重なり、二人は廊下に出てすぐに合流できた。 「……井上巡査部長、今さらだけど本当に平気?」 なるだけ恋人同士の空気を消して、香は隣を歩く井上に問いかけた。気は遣っているが、井上を見つめる薄茶の瞳はイタズラっぽく輝いている。 「お気遣いありがとうございます、穂積管理官。でも、人生には新たなチャレンジも必要なので」 井上は妙に畏まり、真面目ぶっていた。ただ、近くのスープカレーを食べに行くだけなのに――。 荒間署での事件が一区切りつき、香はやっと本部庁舎に戻ってこられた。そしてずっと気になっていた、近くにできたスープカレーの店にも行けるようになった。井上が辛い物が苦手と知ったので、そのうち一人で出かけようと思っていたのだが、今朝、井上から今日のランチは件のカレーショップにしようと誘いがあり、結局二人で食べにいくことになった。 辛いのが大の苦手の井上だが、香と一緒なら行ってみたいと言ってくれたのだ。香が好きな物を自分も好きになりたい、と。 大好きなスープカレーを食べられるからだけではなく、朝から香は浮かれていた。井上の気持ちが嬉しくて、ニヤける顔を整えるのに苦労した。 しかし、カレーを食べに行くだけで決死の覚悟をしている恋人を見てしまうと、申し訳なさも覚える。 「付き合ってくれるのは嬉しいですけど、無理はしないでくださいね」 昼を迎えた廊下は人が多い。他人の目を気にして、並んだ二人の距離は恋人同士のものではなく、親しい上司と部下のものだ。それを井上が一瞬だけ詰めてきて、香の耳元で囁く。 「辛さ、調節できるんだよね?」 井上は引きつった顔をしていた。我慢できず、香は声を立てて笑った。 「大丈夫。お店のホームページを確認したら、レベル1から10まで辛さを選べるんだって。井上巡査部長は低目から挑戦したらいいんじゃないですか?」 香は輝くばかりの笑顔で井上に答えた。それは、すれ違う者たちの目を引いた。いつも氷の無表情を装った穂積管理官が、子供のように無邪気に笑っていれば、仕事上の香しか知らない警官たちが驚きで目を奪われて当然だった。 けれど香は、部下たちの視線に気づかなかった。目の前の恋人しか見えていなかったのだ。 察した井上は、照れ臭そうに鼻の頭を掻いている。大勢に恋人の可愛い笑顔は見られたくないが、それが自分にだけ向けられているという危険な優越感にも浸っていた。 二人は見つめ合い、店が混んでないといいな、とのん気に話しながら、エレベーターホールに向かった。昼休みになってすぐフロアを出てきたが、そこはすでに人が多かった。 何台か並ぶエレベーターのうち、ちょうど行ったばかりで人のいないドアの前に立つ。店が混むことを考えれば急ぎたいが、二人でいられる時間は貴重で、慌てる気にもなれなかった。 少しでも長く、一緒にいたい。二人は同じ思いでエレベーターを待った。じきに上から降りてきたエレベーターのドアが開き、二人は揃って首を傾げた。昼の混雑時だというのに、エレベーターには一人しか乗っていなかったからだ。 しかし、その一人が誰かを認識すると、エレベーターがガラガラな理由はすぐにわかった。エレベーターの中にいたのは、九階の警務部から降りてきた――吉田だった。 香も井上も、香たちの後ろに並ぶ警官も皆、当然乗るのを躊躇う。むしろ香は、早くドアが閉まって下りていってくれ、と願ったが、吉田が香の願いを叶えることは少ない。 「……穂積か? どうした、乗っていいぞ」 嬉しそうに名指しされた。そうされてしまえば断ることは難しい。香はため息を押し殺して一人乗り込もうとしたが、吉田が香の隣の井上に気づかないわけがなかった。 「お、井上巡査部長も一緒か。二人でどこに食いに行くんだ?」 井上まで名指しされてしまった。戸惑いながらも、井上も香に続いて乗り込んできた。そのタイミングで背後のドアが閉まり、エレベーターは静かに下降を始めた。 「……どうしたんですか、お一人で」 香は言いたいことの多くを飲みこんでそれだけ吐き出した。吉田が一人で庁舎内を歩いていることは珍しい。警務部長となれば常に秘書やらなにやらを引きつれているものだ。 「隣の合同庁舎の食堂に、飯食いに行くんだよ」 「警務部長が……庁舎の食堂ですか? しかもわざわざ隣の」 「隣の食堂にな、ちょっと色っぽいパートさんがいるんだよ。ナンパしに行くのに秘書がいたらやり辛いだろ?」 冗談にしか聞こえないが、吉田のことだから事実なのだろう。スケベたらしくやに下がった顔も、そのセリフもまるで本気に聞こえないが、吉田はいつもこの調子だ。 「相変わらず……お元気、ですね。このご時世に堂々とナンパとは……頭が下がります」 「おう、俺は生涯現役だ。……アッチもな」 香の嫌みが通じないのも、下品な冗談で返されるのもいつものことだ。香はウンザリとため息を吐いた。 「それより……お前たち、職場でも随分仲良しなんだな。ランチデートなんて穂積の方がよっぽど大胆じゃないか」 「でっ、デートなんかじゃありませんよ。たまたま二人とも本部にいたので、昼食に出かけようってなっただけです」 「そうかぁ? お前が部下と昼飯に出かけるなんて、今までなかったじゃないか。……で、なに食べに行くんだ? 井上巡査部長」 香に聞いても素直に吐くわけないとわかっているから、吉田は井上に訊ねた。そして井上は、警務部長の質問を無視することなどできない。吉田は腹が立つほど機転の利く男だった。 「あ……えっと、近くにできた新しいスープカレーの店です」 「井上巡査部長、答えなくていいから」 「へぇ……スープカレーか。穂積、お前相変わらずカレーが好きなんだな。サツチョウにいた頃、昼飯にわざわざ神田のカレー屋に付き合わされたことがあったよな」 「……神保町です」 香は苦し紛れな口答えをした。見なくても井上がイラついたのが伝わり、狭い機内に気まずい空気が流れる。 「スープカレーは特に好きだったよな。……なんだ、ほら、あの札幌の有名な店。何回か一緒に行っただろ」 黙れ! と怒鳴りたいのを懸命に堪える。吉田はこの気まずい空気を心底楽しんでいた。 「……警務部長、管理官と北海道に行ったことがあるんですか?」 「井上巡査部長、そんなこと聞いてどうす……」 「ああ、何回もあるよ。ニセコにマンションを持ってるんで、スキーしにね。井上巡査部長はスキーするかな? 確か……君の実家、有名なスキー場の近くだっただろ」 香は薄茶の目を見開いた。吉田は自身の立場を利用して井上を調べたらしい。県警の人事を掌握する警務部トップの吉田にとって、S県警警察官の身辺調査など朝飯前だろうが、捜査一課の巡査部長を警務部長自ら調べるなんてことは、普通はありえない。 井上が香の恋人だと知ったから、吉田は井上を調べつくしたのだろう。 吉田は余裕たっぷりの笑みを浮かべ、井上を見つめている。自分が調べられていると知った井上は、一瞬怯みはしたが、すぐに平静を取り戻し、吉田を真っ直ぐ見つめ返した。井上は有能な捜査一課の刑事だ。大抵の人間に弱みを見せたりしない。 「地元あるあるで、雪国の人間って意外とスキーしないんですよ。雪は下したりよけたりするもんなんで。小中と体育で習ったんで基本はできてると思いますけど」 「なるほどな。……でも、北海道のスキーは別格だぞ。本当に雪質がいいんだ。……なんなら今度三人で行くか? 北海道」 「……はい?」 何人もの凶悪犯と対峙した井上が面喰っている。二人の間に立つ香も、呆れ返って開いた口が塞がらなかった。 その隙に、この場の誰より狡猾な吉田が井上のすぐ横に立つ。そして右手を井上の腰に回した。 「見れば見るほど……イイ男だな、井上巡査部長」 井上はポカンとして、阿呆みたいに吉田を見ていた。香もきっと同じ顔だっただろう。 「香はな、ちょっと細すぎるんだ。俺は……君ぐらい逞しい体つきも好みだよ。高校時代は野球部だったんだって? いいねぇ、その肉づきのいい尻。なにより……甘い顔立ち、厚ぼったい唇がとってもセクシーだ」 吉田は井上を口説きながら――井上の尻を撫でた。それは、あっという間の犯行だった。手慣れた痴漢のように。 あまりの早業に、香も井上もしばらく呆然となった。その間にエレベーターが一階に着き、ドアが開いて吉田は現行犯逮捕される前に素早く逃げて――下りてしまった。 被害者の井上も目撃者の香も、なにが起きたのか把握できないまま流されるようにエレベーターを下りた。まだ事態を把握できずにいる二人を、吉田が楽しそうに振り返る。 「この冬は三人で北海道に行くぞ。断ったら、二人ともスキーができるようなところに飛ばしちゃうからな」 まるで親友と旅行の約束を交わしたような爽やかさで、吉田はとんでもないことを言い出した。そして言いっぱなしで去っていった。 井上が足を止め、香に振り向く。 「……あれ、どこまで本気なんですか?」 香は渋い顔で頭を捻った。 「……怖ろしいけど……たぶん、全部本気だよ、あの人」 「ええ……マジっすか……」 井上は動揺しながらも歩き出した。香は彼の隣に並び、なにから言い訳しようか悩んで井上を覗いた。せっかく仲直りしたのに、また喧嘩はごめんだ。 しかし井上は顔をしかめているが怒った様子ではなく、なにか真剣に悩んでいるようだった。 「井上巡査部長? あのさ……」 「管理官、俺、部長に……」 口説かれました? とそこは香に顔を寄せて声を潜めて訊いた。職場にふさわしくない距離にドキドキしながらも、香は嫌そうに頷いた。 「信じらんないよね。でも確かに、りょ……井上巡査部長ってあの人が好きなタイプかも。女性でも……男でも、色っぽい美形が好きなんだよ」 「……色っぽい……美形? 俺が?」 井上のクッキリ二重の目が丸くなる。井上は、はえ~、と奇妙な声を上げた。 「井上巡査部長? どうしたんですか?」 「いやぁ……世界は広いっていうか……この年になっても、知らないことばっかですねぇ」 吉田との過去を知られて井上が気分を害すのを怖れていたが、そうはならなかった。井上の反応が、香の想定していたものとかけ離れすぎて、戸惑う。 腕組みしながら歩く井上は首を何度も捻りながら、はぁ、とか、ふむぅ、とか唸っていた。 「あの……井上さん?」 「なんかもう……香と付き合ったら、なんでもアリって気がしてきた」 ふいに名前を呼ばれてドキリとする。 「いいかもしんないですね、部長と三人で北海道旅行も」 「……はぁあ?!」 「部長が俺狙いなら、恋人を盗られる心配もないし……俺、北海道行ったことないし」 「ちょ、ちょっと……本気?!」 井上が香に振り向く。ニヤリと不敵に笑んで。 香は遠くでサーッと血の気が引く音を聞いた。失念していたのだ。井上が、吉田にも劣らぬ――食えない男であることを。 「久しぶりにスキーもいいかなって。俺、元々無趣味だったし、これからはもっと新しいことや久しぶりのことに挑戦してこうかな。……辛いのも食べるし、行ったことない場所にも行ってみたいです」 「それはいいけど……だからって、今のは冗談だよね? 本気で三人で北海道旅行とかありえないよね? 俺のことからかったんですよね?!」 井上は甘ったるい顔でニヤニヤしたまま答えない。意地悪な恋人に香のいら立ちが募る。 「答えなさい、井上巡査部長」 低い声で脅したが、井上はちっとも怖がらず、面白そうにしていた。 「いつも俺ばっかヤキモチ妬いてるから、たまには管理官が妬いてくださいよ。部長に抱かれる俺を想像したら、嫉妬で泣きそうになるでしょ?」 「……稜?!」 人目も憚らず、恋人の名を叫んでいた。香たちを追い越していった男性職員、近くを通った制服の女性警官、その他数名が驚いて足を止めて香を見つめる。香は咄嗟に自分の口を左手で押さえていた 井上は――ヘラヘラしたまま歩くのを止めない。二人を眺めていた職員たちは、見てはいけないものを見てしまったのだと察して慌てて目を逸らし、足早に二人から離れていった。 香は慌てて井上を追った。恋人の前に回り込み、発言の真意を問い詰める。井上はそれをノラリクラリとかわし続けた。 どれほど本音をぶつけ合っても、その後に仲直りしても、井上はまったく掴めない男のままだった。それがもどかしくて切なくなるけれど、香は思い出してもいた。 わからないから、惹かれたのだ。 意地悪く微笑んでいる恋人を追いかけ回しながら、香は悪巧みを思いつく。これから食べる井上のカレーを、コッソリ一番辛くしてやろう、と。 「……管理官、なんか……悪いこと考えてます?」 さすが捜一刑事は勘が鋭い。すぐに勘づかれてしまった。とはいえ香も捜一の管理官だ。澄ました顔で、いえ、とだけ答える。 すると二人の立場が逆転した。今度は井上がしつこく香に詰め寄ってきた。 「管理官、悪い顔になってます。……なに考えてんですか?」 香はツンとして答えなかったが、口の端は堪えきれずに上がっている。井上は諦めず、香の口を割ろうと迫った。 二人はそのままふざけ合う仲の良い上司と部下を装いながら、並んで店を目指した。恋人同士の甘い会話もいいが、こんなせめぎ合いも悪くない。 互いを探り合いながら、時に相手に疑問を持ちながら、それでも自分たちは並んで歩いていくのだろう。香は他愛ないやり取りの中でそんなことを感じた。 隣にいるのに掴みきれない、捕えきれない相手に惚れてしまったのだ、二人とも。 「井上さんに内緒で、カレーを一番辛くしてやろうって思ったんです」 香は、尋問してくる恋人の鋭い眼差しに見惚れながら、白状した。香は井上に簡単に落とされてしまう。 「え?! ひどいですよ! やっていいことと悪いことがありますって」 咎めてくる井上を、ウットリと見つめる。井上のお仕置きは正直言って――大好きだ。 「……なんて顔してんですか。セクハラで訴えますよ」 そう言いながら、井上もニヤけるのを誤魔化せなかった。香は嬉しくて笑顔になった。 二人の恋はいつも甘い。けれどたまにスパイシーで――。 その刺激がたまらなかった。          終
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