第三話

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第三話

 父親が業者を手配し、翌々日の土曜の昼には給湯器は修理されていた。金曜に銭湯を訪れた際は、時間が違ったせいか青年に会うことはなかった。あの銭湯には駐車場などないので、近くに住む人間のはずだが、見たことのない顔だった。しかし、高校に入学してからの二年間、放課後はおろか土日も部活に明け暮れていた陽平は、自宅周辺に詳しいとは言えなかった。たまに仲間たちと遊びに繰り出すときも、寂れた駅前をうろついたあと、バスに乗って郊外のショッピングモール付属の映画館に足を延ばすくらいで(このモールが出来たせいで中心部にあった古い映画館は潰れてしまった)、駅から少し離れた自宅近くのシャッター通りには見向きもしなかった。    (あんな人が歩いていたら、目立って仕方ないだろうに…)    あの青年のことが印象に残っていた陽平は、週明けの下校中、自転車を漕ぎながらそんなことを考えていた。明日からは二日間の学力テストが始まるので、早く帰って勉強をしなければならない。部活を優先していたため陽平は塾に通っていなかったが、このまま成績が上がらなければ、母親に無理矢理叩き込まれることになるだろう。  勉強をしなければならないと思うと帰るのが億劫になって、陽平は少し遠回りすることにした。すっかり明かりの灯らなくなった看板の目立つ、かつてはこの一帯で最も賑やかだった歓楽街方面にハンドルをきる。歓楽街へと続く橋の手前には川沿いを整備した公園があり、橋そのものや植えられた木々がライトアップされて美しいのだ。日没前なのでライトはまだ点灯されていないだろうが、新緑の並木道を通るだけでも清々しいはずだ。  梅雨真っ只中だが、天気の良い日だった。県庁所在地の中心部ではあるが、地方の街のそこかしこには緑が息づいていて、ふわふわと芳しい香りが漂っており…、どこか夢の中でいるような、過去と現在の境が曖昧になったように感じられる瞬間があった。    「…あれ」    ある角を曲がったとき、「たこ焼き」と書かれた赤い提灯が目に飛び込んできて、陽平はブレーキを握った。いや、提灯が目に留まったのではない。その隣に佇んで煙草を吸っている人物に見覚えがあったのだ。    「…お」    その人物――銭湯でコンタクトレンズを探していた青年は、自転車を止めた陽平に気がつくと、小さく声を上げた。    「やあ、このあいだはありがとう」    あの時と同じ、人好きのする笑みを浮かべた青年は、それほど驚いた様子もなく声をかけ、反対に、驚いてすぐには言葉が出ないでいる陽平の態度を気にすることもなかった。しばらくして陽平から目線を外し、のんびりと紫煙をくゆらせている彼の姿にハッとした陽平は、ややどもり気味に口を開いた。    「こ、ここの人だったんですか」    「そうよ。たこ焼き、おひとついかが」    「あ!…えっと」  うろたえる陽平を見てふふっと笑った青年は、前掛けのポケットから携帯灰皿を取り出して、煙草の火を揉み消した。それから踵を返すと、開け放たれた戸口から店内へと姿を消してしまう。その後ろ姿をぽかんと見送ってから数秒後、紙袋を手に戻ってきた。    「ほら」    ひょいと目の前に差し出された、店のロゴが判で押された紙袋からは、美味しそうな香りがした。すぐに状況を理解した陽平は、制服のズボンの後ろポケットから財布を取り出そうとした。    「いやいや。おごりだよ」    「えっ…、そんな、いただけません」    その手を押しとどめた青年に、ほかほかと温かな紙袋を押し付けられ、顔を真っ赤にして勢いよく首を左右に振った。    「いいのいいの。仕事前で急いでたからさ、本当に助かったんだ」    「いや、そんな…、あ、ありがとうございま…」    「りゅーとーっ!!」    礼を言いかけたとき、店内から男の太い声が響いて、陽平はびくりと身を竦ませた。    「はあーいっ!!」    次に男の声に負けない大声で目の前の青年が返事をして、二度びっくりした彼が目を白黒させていると、その頭をぽんと叩いた青年が、にかっと笑って言った。    「それじゃ、呼ばれたから。勉強がんばれよ、高校生!」    
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