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6、他人の思い
オレは控えの間で着換えた。父ちゃんは自室へもどって着換えている。片づけを母ちゃんにさせているはずだ。
隣室で着換えながら、奈都が気づいたことを説明している。
「ねえ、野本沙希さん、来てたよね。あの人、・・・・」
オレは着換えながら話を聞いていた。奈都!守秘義務違反だぞ!そう思うオレに気づかず、奈都は野本沙希に関することを説明している。
「何してんの?
うまいじゃん!」
学友の田村は野本沙希に、これ以上にないお世辞をいった。
階段教室の後部席に座った沙希は、スケッチブックを拡げ、四コマ漫画らしい物を描いている。
野本沙希の絵がうまいかと問われれば、お世辞にもうまいとはいえない。ではストーリーがおもしろいか?とても、そういう範疇からほど遠い。
「あたしさ、漫画家になろうと思うんだ・・・。
そうでなきゃ、イラストレーター・・・」
沙希がそんなことをいっている間に、授業がはじまった。沙希は、机に置いた生物学の教科書を開こうとしない。スケッチブックをのぞきこんだままだ。
沙希は教育学部美術科の学生だ。絵がうまいかと問われても、うまいなどといえない。
『よくぞこんな下手くそが、美術科に合格できたな!』
といいたくなるが、田村はその言葉を心の中にとどめている。
一昨日の沙希は、田村の顔を見るなり、
「コラムニストになる・・・」
といい、ノートに書いたコラムを見せた。文章の出だしは世相を反映した内容だが、独断と偏見に満ちて、結論めいたものも落ちもない。内容が途中から脱線して取り留めないものになっている。そのことを話すと、
「だって、こう書いてると、これを連想するじゃん。
そいでもって、こうなるよね。
そういうもんだよ、これ。
これを理解できない田村は、コラムを書く才能無しだね!」
沙希は田村を見て、鬼の首を取ったように笑った。沙希の文章は「起承転転転」だと思うが、本人は「これでいいのだ」という。確か、入学当初に話したとき、沙希は画家になるといった。ここは芸大ではない。沙希の所属は教育学部の美術科だから、可能性は低いが、それもありうると田村は思った。
将来何をしたいか、野本沙希の話は日々変化した。
画家の次はイラストレーター。
次は工業デザイナー、商業デザイナー。
次はアニメクリエーター。
次はコラムニスト。
そして漫画家・・・。
彼女が将来、何をしたいか、あまりに変化するのであきれるが、田村は、彼女なりに何かを表現しようとする意志が彼女の心のどこかにあるような気がした。いつか沙希がそのことに気づくだろうと思い、田村は時間の許すかぎり、沙希の話を聞いた。
ここ最近、田村は沙希の顔を見なくなった。大学にもきていないらしい。気になったが、顔見知り程度の付き合いなので、美術科の学生に彼女のことを訊くこともなく夏が過ぎて秋になった。
ある日、医学部付属病院に入院した知人を見舞ったあと、田村は医学部の近くにある喫茶店に入った。沙希が、店長と呼ばれ、忙しそうに働いていた。
田村は、絵がありストーリーがある四コマ漫画は、沙希が猫の目のごとく変化する世相を、独断と偏見で批判するのに適しているように思った。
しかし、沙希の心に湧きあがっていたのは、世の中で人目を惹くような「〇〇家」や「〇〇ニスト」、「〇〇ーター」になることで、自分の中に湧きあがる、何かを表現しようという欲求でなかった。
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