花菖蒲(前半)

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「背の高き方は。あの、このようなものをかけた」  秋園が真っ赤な指先で作ったわっかを自分の中の両目に当てる。 「あいかわらず、うちを蛸丸って呼びよる。好かんタコや」 「それはぞじが悪かろう」  成通の言葉にぐうの音も出ない杏木。  楓瑞穂。耳慣れない苗字であるが甲斐武田氏に代々仕えた医者の家系であり、名字帯刀を賜った由緒正しきだという。薄明に青く光る瞳と金色に透ける髪は、日露戦争に軍医として従軍した曾祖父と結婚したロシア人の曾祖母からの遺伝だとか。 「ウザいし、キショいねん」  小学生の頃から週一回葛飾クラブのセミナリオに通い、女子として初めてキャプテンをつとめたエリート。その気負いもあるのかとにかく仕切りたがる。練習では一歩でも立ち位置がずれると監督のように怒鳴り散らす。家に帰っても靴を揃えろだのちゃんと蛇口は閉めろだの、うっとうしいことこの上ない。  ポジションはザゲイロ、守りの中心である。背番号が33なのは生え抜きと言えど例外ではない。貴重なレフティ(左利き)に加え170センチの長身であり、他のポジションもこなせるがザゲイロ一本にこだわった。 「きしょい、とは」 「骨の写真見てニタニタしとるんや」 「骨とな。しゃれこうべでござりまするか」 「頭がい骨やのうて、膝とか肘とか。関節フェチやねん」  夜中に目が覚めてトイレなどに行くと電気のついた部屋が一つだけある。こんな夜更けまで勉強かと何の気なしに覗いてみれば、レントゲン写真ばかりが貼られた本を眺めるゆるみきった顔があった。骨であれば人間でなくてもよいらしく、羽根やしっぽの生えたものまで本棚狭しと並べられていた。 「ドトールになるんやと。コーヒー屋ちゃうで」  ポルトガル語で医者、それもスポーツ外科医になるのが瑞穂の夢である。
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