椿餅

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椿餅

「ぼーん・・・ぼーん」  週の真ん中だというのに、銀色に光る常磐線の下り列車は閑散としていた。  ちょうど三河島を過ぎたところ。左手に見えるひどくだだっ広い青空と柔らかな朝日の下には隅田川が流れているが、そちらに目をやる者はこの車輌にいない。  乗客は五人。優先席には哺乳瓶をくわえるのに必死な一歳にも満たない赤子、それをスリングで結わえた母親はどこか疲れながらも慈愛に満ちた眼差しを注いでいる。はす向かいに両足を床に投げ出しギターケースを枕にいびきをかく革ジャンの男は徹夜明けだろうけ。  その同じ並び、列車の進行方向の一番端に座る乗客は「月刊 和菓子」と書かれた大判の雑誌に顔を埋めていた。  あとはすべて空席の車輌で、一人だけ立っている小さな人影がある。  右手につり革、左手にマジソンバッグ。若草色のジャージに身を包み、両側で結った髪の毛を左右に分けて角のように結わえた少女である。全体的にあっさりとしていた顔立ちで、眉を細くアーチ状に整えているのが特徴的。  座らないその理由はその足元を見ればすぐわかる。リフティングしているのだ。ただし蹴っているのはボールではなく丸めた靴下である。球とはいえない、形容しがたいいびつなそれを爪先だけで浮かせている。列車が線路の継ぎ目を通る際の揺れにびくともしない。
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