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夜。
俺はあいつとの約束通り、玄関市場の渡り通路へと向かった。
いつも人通りのない狭い道、夜は一層静かに思う。
フィルムとカメラを収めたバッグだけを持ち、煙草を吸いながら向かうと、玄関市場の明かりと喧騒に包まれた灰色の世界の中に、あいつはいつも通りの場所に座っている。
格子の外に足を出し、猫背になって玄関市場を見下ろして、うっつらうっつらと赤茶の髪が揺れていた。
こいつが誰なのか、何処の人間なのか知らない。だが、昨日の申し出は断れなかった。行く必要も、気になることもないのに、何故だか。
「ヤス」
俺が近づくと、あいつはその顔をこっちに向ける。昨日とは違い、少し虚ろになった目が気になった。
…眠いのか?
「別に。少し、疲れただけだよ」
格子から足を引っ込めて立ち上がるスラッとした体型が目を引く。まるでモデルのように、スタイルがいい。
「来たんだ。来ないかなって、思ってた」
なんとなく、だ。ここの夜は早いし、どうせ暇だしな。
「そ。じゃあ約束通り、面白い所に連れてってあげる」
チリンとチョーカーの飾りが揺れて、ブルゾンを着た背中を向け、スニーカーを履いた足が歩き出す。
その背中についていきながら質問した。
なぁ、おい。お前は何者なんだよ?
「お前じゃない。名前で呼ばなきゃ答えないよ」
不機嫌そうに返してきた。
…宵。
仕方なくその名を呼ぶ。
暗い通路に入って行くヨミは、俺の口から名前が出たことで足音をタンッタンッと鳴らしながら答えた。
「それが私の正体」
俺はヨミの後ろについていく。
暗く、嫌な臭いのするコンクリと配管、ゴミの中の入り組んだ道と、ガタガタとガタつく階段を下りる。何処へ連れていく気なのか、不思議とどんどん下の階へと降りて行っている気がした。
「今日はどんな写真を撮ったの?」
歩いている途中、店のシャッターが下りている通路の前で俺に聞く。
大したもんは撮ってねーよ。
「うまくいかなかったんだ?そーね、そんな日もあるよ」
お前はいつもあそこにいるが、昼間はなにしてんだよ?
「色々。でも最近はつまらなくて、退屈してた」
何処に連れていく気だ?
「遠い遠い世界」
…答えになっているんだかなっていないんだか。いまいち的はずれな会話が続く。会ったのは三回目だが、ちゃんと会話をすると何処かにズレがあることが分かる。
自分がって言う可能性もあるが、ヨミの喋る感じや落ち着いていない動作が何処か別次元にいるようだ。
小躍りを踊るような足取りで、どんどん下へ下へと下りていく道を進む。それは灰色だったクーロンの世界から、セピア色に彩られて変化していく。
人の気配が全くと言って良いほどなくなる。
辛うじてそこにあった日常から、遠ざかっていくのを感じる。
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