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一体、なんだと言うのか。
指し示すがままに、特に拒否する理由もない。渋々カメラを構えてレンズを郵便受けに向け、目は接眼窓を覗いた。
ぼやけて見えない像に対し、レンズのピントを合わせた接眼窓の向こうの景色はまるで違っていた。
____!
_見える。
郵便受けの中に入っていた顔とそっくりな老人の姿が。
店と店の合間に小さく狭い通路があり、その間で、痩せ細ってシワだらけの顔、ヨボヨボの体をした老人が道を遮るように座って、古くさいラジオを足元に置いている。
床に落ちて朽ちている郵便受けが、シャッターの隣の壁にしっかりと固定されて役割を果たしている光景。
カメラから目を離せば消え、再び目をつけると、その光景が見える。これは夢か、それともカメラがおかしくなったのか。
_≪今天是黎明,小熊猫出生在长安熊猫研究所≫
≪重量是3000克的一个性格开朗的男孩,名字是......≫_
聞こえるわけのないステレオのラジオ番組までが聞こえてくる。
エンドレスのように繰り返される中国語、アナウンサーらしき女の声、周波数から混じって漏れるノイズ、耳までおかしくなったのか、同時に耳鳴りにも襲われた。
老人の虚ろな目が俺を見ている、あの郵便受けの中から見つめてきた目と同じ、中身があるのかないのか、生きている人間のする目なのかと思うくらい、魚のように渇いて虚ろだ。
お前は誰だ?と聞いたとしても、多分返事はないだろう。通じたとして、なるべくなら関わりたくもない。
≪_____≫
_≪今天是黎明,小熊猫出生在长安熊猫研究所≫___
微かに動いている口が、何度も何度も同じ動きを繰り返す。映像を巻き戻し再生しているように、ラジオから聞こえるアナウンサーの声と一緒に、口だけが同じ動きを繰り返していた。
「……撮って」
枠外からヨミの声が聞こえた。
それだけでも少し安心できたのは、このカメラの中の景色が実際の景色と錯覚していたからなのか。
≪____这场噩梦≫
ボソボソとしていた老人の口が今までよりも大きく分かりやすく動く。
その時、背後の道から黒くウゴウゴと動いている何かが老人の姿を覆い尽くしていく最中で
無意識に、シャッターを切るボタンへと手をかけた。
____≪ッッッ!!≫___
フラッシュを浴びたと同時に、老人の座っていたプラスチックの椅子の上から引っ張られるように黒い何かに飲み込まれた。
老人は俺に向かって叫んだ。
あの郵便受けに入っていたまんまの虚ろな表情で。
_闇の中へ飲まれていく。
後に残されたのは、プラスチックの椅子、ラジオ、壁に固定された郵便受けやまだ真新しいシャッターと、電線がでたらめに張り巡らされたクーロンの廃した背景。そこにいた老人の姿だけが呆気なく姿を消した。
__≪今天……明,………猫出生…长……猫研,究……,≫
ラジオの音声が途絶えて、耳触りなノイズも少しずつ消えていく。
老人の後ろから現れた黒い渦をウゴウゴと揺らめかせる何かが彼を飲み込んでその場に残っていた。
不思議と怖いとか恐ろしい気持ちはない。
モヤモヤとした黒い影は霧のように徐々に姿が霞がかっている。老人を飲み込んだそれは、俺の方を向いて、ただじっとしていた。
なんだよ。
無意識に口から一言、その黒いものに向かって漏れていた。
少しの間そこでじっとしていたかと思えばドロドロに溶け始め、そのままコンクリとゴミだけの地面の中に消えた。
足元にそよぐ程度の風が吹く。ハラッと触る感触に、カメラから目を離して足を見ると、すぐ側に一眼レフから出るはずのない写真が落ちている。
画像は真っ黒で何も写していないが、
それを拾い上げたのは、俺にカメラで撮るようにジェスチャーしたヨミだった。
___「“要外五級“」
黒い画像を凝視して、一言呟いた。
カランッと乾いた音が鳴り、写真を撮った先に視線を移動させると、そこに郵便受けはなく、代わりにバラバラに解体されたプラスチックの残骸が残っていた。
そして、壁だったはずの店の隙間と隙間に、老人が遮っていた路地の暗い入り口が出来上がっていて、目を疑った。
「なんだここもか。最近多いな」
「スゲー。ヤスがピカッってやったら隙間出来た!どーやってんの?」
セレネとローグレンが路地を覗いて話している。俺が写真を撮ってる僅かな時間で何があったのか。コンクリで出来た壁だったのに、こんなすぐに道が現れるわけがない。
どういうことだと黙って写真を見ているヨミに視線で訴えると、ヨミは長い睫毛をした目をこっちに向けて口を開いた。
「これが本当の姿。さっき見ていたあの景色は、グェイが作り出したニセ物」
ペラリと人差し指と中指に挟んだ写真を俺に差し出す。
「あいつらは在るべき姿を擬物として変えてしまう。そこにあった道も、内部の構造も、時には人間でさえも」
それが『一度入ったら、二度と出ては来れない』と言われる由縁だと。
「あいつらは悪戯で道を滅茶苦茶にすることもあれば、人間に危害を加えるものもいる。基本的に肉眼じゃ見えないけど、砂嵐みたいなブレブレが見えたでしょ?それは見えるやつと見えないのがいる」
なんで俺には見えた?
「撮影師の素質があるから」
なんだよ、それ?
「グェイをこんな風に写真に閉じ込めて、退治する人の事。元々は風水師とか祈祷師とか専門家の集まりだったんだけどね、昔はいっぱいいたんだけど、クーロンが大きくなっていくごとに、いなくなった」
いなくなっただと?
「今みたいなのは地縛って言って、ほとんど害はない。ただそこにいるだけだから。…でも、アイツらは穢を食って力を増すから、あまり放っておくと、今度は人間の『形』でさえ、変えようとする。そして最後に、魂を食らい…」
「肉体はこのクーロンの一部として、バラバラにされてよく埋もれてるのを見る。今回はそれがなくて幸運だな。撮影師は、場数踏んでいく事に正気を失って変死する率が高いんだよ」
ヨミが話している最中で最後にセレネが路地から目を離し、割り込んで来た。
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