「ねえ、ねえ、あのね」

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「ねえ、ねえ、あのね」

 閃光が走った。  痛い!  簡潔な三文字が頭の中で瞬く。  体が強張った。だけど、それ以上に鮮烈な衝撃は訪れてくることはなく、身を縮こまらせて、ただ堪える。  突如、稲妻のように駆け抜けていった痛みは、尾を引く耳鳴りを余韻として残していた。じっと、鋭い刃と刃を叩き合わせたような、甲高い音が通り過ぎるのを待つ。まるで世界が遠ざかってしまったようだった。  やがて耳が平衡感覚を取り戻すと、蹲った僕は、頭を抱えていた手を解いた。  真っ暗だ。光の一筋さえも見えない。  思わず放り投げてしまった懐中電灯を探して、四つん這いになる。墨を塗りたくった闇の中を手探りで進んでいると、指先にこつんと硬いものが当たった。  手に取って、形を確かめる。スイッチをオンにすると、暗闇を光が丸く切り取った。良かった。壊れていない。  膝に手を着いて起き上がり、入ってきた扉に近付く。取手を捻ってドアを開けてみても、世界は暗闇に包まれているままだった。  だけど、覗いたホールは懐中電灯以外の薄明かりもある。ホールの向こう、更に外から漏れてくる月の明かりや街灯だろう。  さっと辺りを見回して、人が居ないことを確認する。  心臓がばくばくと鳴っていた。このまま放置していれば爆発してしまいそうで、僕はゆっくりと深呼吸をする。  唇が震えていて、指先が痺れていた。ぴりぴりと痛みを訴える右手を叱咤し、そろりとホールの中に出る。重たいドアは、背後でうるさい音を立てて閉まった。  エレベーターは使えない。次に内階段へと続くドアを開けて、懐中電灯で足元を照らしながらに上る。  三階に辿り着く頃には、息が切れていた。  先程の尻もちをついた衝撃だけが原因ではない。知らず知らずの内に、僕の足は駆けていた。急いでいる。一分、一秒たりとも無駄には出来ないのだ。  音を立てないように気を付けて家の扉を開けると、リビングの方にほんのりと明かりが灯っていた。蝋燭の火だ。廊下の先、リビングダイニングに出る扉には、縦に細長いガラスが埋め込まれている。ぼんやりと橙色の灯りを揺らす四角い景色を見て、僕はほっと息を吐いた。 「お前が持ってたのか」  廊下の扉を開け、懐中電灯で部屋を照らす。眩しそうに振り返ったお父さんが、一番最初に僕に声を掛けてくれた。  お父さんはキッチンコンロ下の戸棚を漁っている。懐中電灯は、もともと戸棚に仕舞われていたものだ。目当ての品を僕が握っているのを見て、お父さんは眉を寄せていた。 「おかしいわねえ……向かいのマンションは電気が点いてるわ」  カーテンを開け、窓から外を眺めているお母さんが声を上げる。  窓の向こうは明るかった。見下ろす街灯は煌々と道を照らしていたし、隣接するマンションの居室の窓も、電気の光を漏らしている。視線を遠くに向けてみても、変わりはない。街から光が消えているわけではなかった。 「この前、停電したばかりなのに……また何かトラブルかしら?」  やあねえ……と顔を顰めて、お母さんは溜め息を漏らす。 「うちのブレーカーだけじゃね?」  吐き捨てるように応えたのは、お兄ちゃんだ。  ダイニングテーブルの上で、蝋燭は灯火を揺らしていた。  半分ほど減っている太い蝋燭は、少し前に起きた停電でも大活躍している。前回の停電の時は、一時間ほどで電気が復旧した。その間、ずっと蝋燭は家を照らしてくれたのだ。  椅子に座ってスマートフォンを弄っていたお兄ちゃんが「貸して」と、僕の手から懐中電灯を奪う。  向かった先は洗面所だ。洗面所に、ブレーカーがある。前回はお父さんがブレーカーの調子を見ていたから、僕も在処を知っていたし、ブレーカーが何たるかを知っている。  ブレーカーに手を伸ばすお兄ちゃんの後ろ姿を、僕は恐る恐ると眺めた。  カチ。カチ。五つ並ぶ黒いスイッチから、一番左端のスイッチを弄って、舌打ちが落とされた。 「点かねえなあ」  僕は潜めていた呼吸を元に戻した。 「はあ……こうなっては仕方ないな。以前で教訓を得て、きちんとバックアップしといて助かった。……ちゃんと出来てるといいんだが」  リビングに戻ると、キッチンにしゃがみ込んでいたお父さんが、パソコンデスクの前に立っていた。  デスクと言っても小さなものだ。デスクトップパソコンの液晶とキーボードでいっぱいいっぱいになって、マグカップの置き場所もない。僕の学習机の方が大きいくらいだ。なのに、僕が机に向かって勉強をするよりも、お父さんが窮屈そうなデスクの前に座っている方が時間が長い。  そんな、いつもお父さんが噛り付いているデスクだけど、パソコンの画面は真っ黒に落ちていて、今は椅子に座る気もないようだ。  お母さんが「直るのを待つしかないわねえ」と、残念そうに呟く。  お母さんの手には、スマートフォンとテレビのリモコンが握られていた。家に居る時の大半、お母さんはその二つを持っている。  レコーダーを買い換えてからは尚更だ。同時に二番組も三番組も録画が出来る優れもので、すぐにハードディスクの容量がいっぱいになる。お母さんが再生する先から新しい録画が始まり、いたちごっこだった。永遠に終わらない。 「録画してたドラマ、溜まってたから見てしまいたかったんだけど……」  ボタンを押しても反応はしないのに、名残惜しそうにテレビへとリモコンを向け続ける。お兄ちゃんが「今時テレビとか」と鼻で笑った。  僕は自室に向かった。僕とお兄ちゃんには、それぞれ一人部屋が与えられている。四畳と五畳の狭い部屋で、隣同士。勿論、四畳の方が僕の部屋だった。子ども用のベッドと、大きな学習机でぎゅうぎゅうだ。  部屋の中に入ると、ベッドの下を覗き込んだ。  一抱えもある大きな箱を引きずり出す。  箱は長方形で平べったく、角が欠けている。お兄ちゃんが小学生だった時に買い、僕も小さい頃によく遊んだから、かなりボロボロだ。印刷が剥げて、灰色のボール紙が剥き出しになっている。  抱え込んでいそいそとリビングに戻ると、ローテーブルの上に箱を置いた。  ダイニングの椅子に座り直していたお兄ちゃんが、スマートフォンから顔を上げて口をへの字にした。 「げ、またやんの?」 「この前もやったじゃない」  お兄ちゃんの声に続いて、お母さんが言った。そう、コレで、前回の停電の時も遊んだ。何年ぶりのことだっただろう。久し振りにコレを広げた時、僕はとっても感動した。嬉しくて、嬉しくて、堪らなかった。 「人生ゲームしかないのか? 他にトランプとか、オセロとか……」  箱の中身は人生ゲームだ。ルーレットを回して駒を進めていく双六。印刷は剥げ、かすれていたが、箱の表面にうっすらと「人生」の文字だけは読める。 「オセロは二人だけだし、トランプはお母さん、ババ抜きしか知らないもん」 「ババ抜きなんてしねー」  僕がお父さんに答えると、お兄ちゃんがうんざりしたように言う。 「だから、ね。また人生ゲームしようよ」  僕は、最初に向かいのソファーに腰を掛けていたお母さん、パソコンデスクの前にいるお父さん、ダイニングの椅子に座ったお兄ちゃんを、順繰りに見た。 「しょうがないわねえ」  お母さんが、ソファーの上にリモコンとスマートフォンを置く。その手に何も持っていないところを見るのは、前回の停電以来ではないかと思った。  ぺこぺこになった箱を開けて、中から二つに畳まれたボードを取り出した。スーパーの袋に詰められて、ごちゃ混ぜとなっていた駒も出す。  お父さんが「やれやれ」と溜め息を落としながら、僕の隣に座った。 「お兄ちゃん、暗いわ。蝋燭持ってきて」  行儀悪く椅子に座っているお兄ちゃんの目は、相変わらずスマートフォンの画面に向いていた。ダイニングテーブルの上にある蝋燭をちらりと見るも、画面を叩く親指の動きを止めない。 「またゲームか。いい加減にしろ。さっきも部屋でゲームをやってたんだろ」  呆れたようなお父さんの声にも、お兄ちゃんは顔を上げなかった。  お兄ちゃんは、スマートフォンで動画を見るか、ゲームをしてばかりいる。加えて部屋でも、テレビゲームばかりだった。  学校から帰ってきて、ご飯とお風呂以外は滅多に部屋から出てこない。出てきたとしても、食事中もスマホをぴこぴこ、お風呂もスマホと一緒に入っている。  だけど、テレビゲームは停電の今は、電源ボタンを連打してみたところで動かない。  スマートフォンは……。  苛立ったように「あーあ、もう充電ねーし。つーか、人生ゲームだってゲームじゃね?」と言って、スマートフォンをダイニングテーブルに置いたお兄ちゃんに、お父さんは苦い顔をした。僕は心の中でガッツポーズをする。 「ゲームはゲームでも、画面に向かってばかりいるより、いいだろう」  人生ゲームにおいて、自分の駒になるミニチュアの車に、棒のような人形を差しながら、お父さんは眉間に寄った皺を深くした。眉毛がくっ付いてしまいそうだ。 「お父さんだって、パソコンばっかじゃん」  僕も駒を弄りながら、口を出す。僕が味方に回ったと思ったのか、お兄ちゃんは得意げに口を閉じた。お父さんも閉口する。 「お父さんはお仕事なのよ。そんなこと言わないの」  お母さんが棘付いた声で嗜めた。お母さんはいつもお父さんの味方をする。家に帰ってくるとパソコンに齧りついてばかりいるお父さんに、昔は文句を言っていたのに、何処かに忘れてきてしまったらしい。 『昔はあんなんじゃなかったのに……』  お母さんは、よくそう言っていた。僕も、そう思う。昔はもっとお父さんと話をする時間があった。でも、お母さんだって、昔はこんなんじゃなかった。  自分がテレビに夢中だから、お父さんのことを悪く言えないのだ。 「ていう、おふくろも、テレビかスマホばっかじゃねーか」  嫌味ったらしくお兄ちゃんが足を組んで、頬杖を着いた。  中学生になってから、お兄ちゃんはお母さんを「おふくろ」と呼び、お父さんを「おやじ」と呼ぶ。口も悪くなった。そして、家族と居る時間を恥じるようになった。一緒に外出することを嫌がり、話をすることを避ける。  小学校の高学年から恥じらいはあったようだけど、中学生になってからは目に見えて酷くなったのだ。  お母さんは「思春期だから」と言って困ったように笑うばかりで、お父さんも見て見ぬふりをしているようだった。  時期がくれば落ち着くさ、それが口癖だ。 「いいよ、もう。ほら、やろう」  お母さんの顔が恥ずかしさから赤くなったのを横目に見て、僕はお兄ちゃんを急かした。  お兄ちゃんは嫌々そうにしながらも、蝋燭を持ってリビングにやってくる。  お父さんとお母さんの間、皆んなから一番に距離があるテーブルのコーナーに座ったのを見て、僕は駒を手渡した。  青色の車だ。小さな時から、お兄ちゃんは青の車を使う。僕が青い車がいいと泣いても、譲ってくれることはなかった。僕はいつも黄色である。お母さんがピンク。お父さんは緑だった。それは、昔から変わっていない。  ルーレットを回す順番を決める。一番手になったのは、お母さんだ。何故かお母さんは、家族の中で一番にじゃんけんが強い。  ルーレットを回した。六。次はお兄ちゃんの番だ、七。お父さんは三を引き、最後に僕がルーレットを弾いた。  念じるように、回る文字盤を睨みつける。  出来るだけ、小さい数字。  出来るだけ、長く続くように……。  出た目は一だった。 「やった!」  僕が声を上げると、お母さんが不思議そうにした。 「ええ? これって大きい数字が出た方がいいのよね?」 「止まるマスによるんじゃね?」 「そっか、そうよね。双六だものね」  またルーレットが回る。  生まれたての赤ちゃんだった僕たち家族は、すぐに小学校に入学した。  お父さんの車が『小学校の入学式で、緊張のしすぎで熱を出す。一回休み』に止まる。読み上げたお父さんの声を聞き、お母さんが笑いを吹き出した。 「あー! 懐かしいわ、お兄ちゃんも入学式の時、緊張しすぎてね、熱は出なかったけどトイレから出てこれなくなったの」  思い出し笑いで目尻に涙を溜めたお母さんをぎょっと見て、お兄ちゃんは顔を赤くした。 「そんなこともあったなあ……もう式に間に合わないって、俺たちがハラハラしたんだ」  可笑しそうに、お父さんも口角を上げる。 「やめろよ! そんな恥ずい話!」 「ええ、だってお兄ちゃん、緊張するとお腹下っちゃうの、まだ治ってないでしょ?」  僕も釣られて笑ってしまって、お兄ちゃんに睨まれる。しゅんと肩を窄めたまま、ルーレットを回した。お母さんの番になる。 「あら……私、テストで一番だって。学力が上がったわ」 「あ、あのね、僕、この前のテストで一番だったよ」 「えっ! そうなの?」  驚いて目を大きくしたお母さんが、僕を見た。お父さんも「すごいじゃないか」と声を上げる。「早く言えよ、そういうことは」と続けられた言葉を聞いて、僕は無意識に口を真一文字に結んだ。  いつ言えばいいと、言うのだろう。  僕の声は、いつもは皆んなの耳に入らない。  困惑して俯いてしまった僕を無視して、お兄ちゃんがルーレットを弾いた。大きく回って、九を出す。お母さんとお父さんの駒を追い越して、早々にお兄ちゃんは小学校を卒業した。 「やりい。一歩リードな」  家族を抜いたことで、楽しそうに声が弾む。「抜かれちゃったわ」とお母さんが落胆した。 「それにしても、まだ点かないのか」  ルーレットに手を掛けながら、お父さんが言った。 「あなたは、一回休みよ」 「あ、そうだったか」  お父さんがルーレットから手を離した。  部屋はまだ暗がりに包まれていて、窓から入ってくる外の薄い光と、懐中電灯の円、蝋燭の小さな炎によって照らされている。テーブルの上は問題なく見渡せるが、それぞれの顔には頼りのない影が落ち、部屋の四隅に溜まる闇も拭い去れていない。本来ならば心許ないと思える明かりでも、僕にはかけがえがなく暖かいものだった。 「この前の停電は変電所が原因でしょう? 今回は何なのかしら?」 「ブレーカーで直らないとすると、このマンションだろうな」  不安げなお母さんを慰めるように「じきに直るさ」とお父さんが強い声で言う。  僕は複雑な気持ちで、ルーレットを回した。八。小さい数字が出てくれるように祈っているのに、八とは随分と大きい。  少しだけ落ち込みながら駒を進めると、人生ゲームの僕は小学校の合唱コンクールで金賞を取った。  お母さんが「ああ、この前の合唱コンクールは残念だったわね。あなたのクラス、二位だったんでしょ?」と、思い出したように口にする。常日頃お母さんが煩わしそうにしている『ママ友達』から、聞いたのだろう。僕は頷いた。 「合唱とか超だりい」 「中学校でもあるわよね?」 「さあ……」 「二位もすごいさ。よく頑張ったな。でも、次は一位になれるよう、努力しろよ」  頭に重みが乗る。お父さんの大きな手の平が乗っていることが、前髪が下がったので分かった。  小さい頃、お母さんがよくしてくれたような丁寧なものではない。不器用で、少し乱暴だけど、安心感のあるものだ。  下がった前髪からお父さんを見上げると、僕の口元は自然と緩んだ。 「次は私ね! お兄ちゃんに追いつくぞー」  お母さんがルーレットを回す。  出たのは五ーー。そこで、頭上の電灯が瞬いた。  数度の瞬きの末に、パッと視界が明るくなる。一瞬、何が起こったのかが分からなかった。目が眩んでぼやけ、目の前にあった人生ゲームのボードが見えなくなる。騒がしい音が耳に響いた。  やっと視界が戻ってくると、世界は元通りの景色になってしまっていた。  電気が点いている。懐中電灯と蝋燭の光が掻き消される。テレビから姦しい笑い声と話し声が流れていた。夜のバラエティ番組だ。誰とも知れない笑い声を耳に入れると、腹の底がすんと冷えるのが分かった。  僕は呆気に取られ、絶望する。  パソコンの唸るような起動音も聞こえた。  いつも通りの機械音に、テーブルは包まれていた。 「あー、やっと充電できるわー」  最初に席を立ったのは、お兄ちゃんだった。立ち上がってダイニングに行くと、テーブルの上に置いていたスマートフォンを手にする。そのまま、振り返りもせずに部屋へと向かっていった。  お父さんがパソコンに近付き「ちゃんとバックアップできてるか確認しないとなあ」と、凝った肩を解すように首を回す。  お母さんは生き返ったように目を瞬かせ、慌ててテレビのリモコンを手に取った。 「……続きは、」  小さく漏らした僕の声は、誰にも拾ってもらえることはなかった。  いつも、そうだ。  お母さんはテレビの向こうに夢中で、お父さんはパソコンの画面と睨めっこ、お兄ちゃんはゲームのコントローラーを離さず、スマートフォンに釘付けになっている。  僕が、いい点を取ったテストを持って帰っても、学校であったことを聞いてほしい時も、いつも、いつも「忙しい」「後でね」「うぜえな」と切って捨てられるのだ。 「ねえ、ねえ、あのね」  僕の尋ねる声は、この明るい世界で常に彷徨っている。  世界から明かりの消えた暗がりの中じゃないと、僕にはぬくもりがないのだった。  何の録画番組を見ようか吟味し始めたお母さんを一瞥して、それぞれの駒を僕はビニール袋にしまった。貯めたお金も、能力値も、ぐちゃぐちゃになって、まっさらになる。ビニール袋の口を結び、ボードを折り曲げて箱の中に入れると、よろよろと部屋に戻った。  隣のお兄ちゃんの部屋からは、薄いドア越しに、テレビゲームの音が聞こえてくる。ぴこぴこ、ぴこぴこ。頭が痛くなってしまいそうな、機械の音。  そっと自室に入って、ベッドの下に人生ゲームをしまう。暗がりの中に埋もれていく箱を眺め、床に膝を着き、ほおを床にくっつけた体制のまま、へなへなと尻も下がった。ぺたりと俯せの状態で、床に寝そべる。ひんやりとした冷たさが、僕の体を包んだ。  今回の停電は、前回の停電よりも短かった。  前も一時間程度の停電で、人生ゲームを終わりまで遊べなかったが、今回は中盤までも進められていない。  僕の駒は、小学生で止まったままだ。  途端に悲しくなって、目に涙がこみ上げてくる。うっと喉に空気の玉が詰まったようになり、息が苦しくなった。鼻の奥が熱い。唇を噛み締めた努力も虚しく、ほおに涙が伝う。床が濡れた。  僕は考える。  今回よりも長く。前回よりも長く。  家が暗がりに包まれるには、一体どうしたらいいのだろうか?  涙に濡れた指先がぴりぴりと痛んだ。いつの間にか、火傷をしてしまったらしい。赤くなって、皮がめくれている。一階の変電室で負ってしまったのだろう。駆け抜けていった閃光が蘇る。  どうしたら、どうしたら。  もっと、出来るだけ、長く。  僕は、次にマンションの変電室に忍び込んで、どのような細工をすべきか、ぼろぼろと泣きながらも、必死に頭を悩ませた。  もっと、もっと、家族と話せる時間を……。
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