0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
おねげえございますだ
声がした方に向く
誰もいない
いや
目線を落とすと
老人がいた
私の目を覗き込んでくる
上目遣いで
少し不快だ
老人から視線を外す
回りはオフィスビル
時間は深夜に近いが
それなりに明るく
それでも人は絶え間なく
私と老人の横を通り過ぎていく
学生のような格好をした若者が通り過ぎ
振り返り
興味をなくしたのか
去っていった
おねげえございますだ
老人は私に対してもう一度同じことを言った
老人に目をやる
ホームレスだろうか
少し匂う
今更ながらこの老人は他人だ
私の記憶の限りホームレスの知り合いはいない
もっとも最近物忘れが多いことは否定できないが
だがまだ初老とは認めたくない
おねげえございますだ
老人がもう一度言う
私はうんざりとため息をつきながら
なんですか
と答えた
いつもそうだ
困っている人を放ってはおけない性分で
恋も出世も逃した
それでいいとは思う
それが自分らしいとも思う
だがほんの少しだけ
虚しくもある
耳を貸してくだせえ
大きな声で老人は言う
いきなり大きな声を出す
不快度が増す
老人は自分の耳が遠いから私まで耳が遠いと思い込んでいるのだろうか
自分がそうだから相手もそう
そんなのは思い込みだ
長年社会人をやっていれば嫌でも自覚する
果たして
この人は働いたことがないのだろうか
おねげえございますだ
耳を貸してくだせえ
おねげえございますだ
うんざりする
だがここまで相手をしておいて
そのまま帰るというのも罰が悪い
幸か不幸か
終電まで少しだけ時間がある
おねげえございますだ
わかってる
耳を貸してほしいのだろう
私は腰を屈め
体をひねり
頭の側面を老人に向けた
しゃきんと音がした
それと頬を伝う液体の感触が
最初のコメントを投稿しよう!