おねげえございますだ

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おねげえございますだ 声がした方に向く 誰もいない いや 目線を落とすと 老人がいた 私の目を覗き込んでくる 上目遣いで 少し不快だ 老人から視線を外す 回りはオフィスビル 時間は深夜に近いが それなりに明るく それでも人は絶え間なく 私と老人の横を通り過ぎていく 学生のような格好をした若者が通り過ぎ 振り返り 興味をなくしたのか 去っていった おねげえございますだ 老人は私に対してもう一度同じことを言った 老人に目をやる ホームレスだろうか 少し匂う 今更ながらこの老人は他人だ 私の記憶の限りホームレスの知り合いはいない もっとも最近物忘れが多いことは否定できないが だがまだ初老とは認めたくない おねげえございますだ 老人がもう一度言う 私はうんざりとため息をつきながら なんですか と答えた いつもそうだ 困っている人を放ってはおけない性分で 恋も出世も逃した それでいいとは思う それが自分らしいとも思う だがほんの少しだけ 虚しくもある 耳を貸してくだせえ 大きな声で老人は言う いきなり大きな声を出す 不快度が増す 老人は自分の耳が遠いから私まで耳が遠いと思い込んでいるのだろうか 自分がそうだから相手もそう そんなのは思い込みだ 長年社会人をやっていれば嫌でも自覚する 果たして この人は働いたことがないのだろうか おねげえございますだ 耳を貸してくだせえ おねげえございますだ うんざりする だがここまで相手をしておいて そのまま帰るというのも罰が悪い 幸か不幸か 終電まで少しだけ時間がある おねげえございますだ わかってる 耳を貸してほしいのだろう 私は腰を屈め 体をひねり 頭の側面を老人に向けた しゃきんと音がした それと頬を伝う液体の感触が
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