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突然食堂に男が入ってきて、宿屋の主人と話し始めた。身なりからして宮廷の人物のようだが、なにやら困っている様子だった。
断片的に聞こえてきた話を要約すると、皇太子殿下の狩りに随伴していた従者が近くで落馬して大けがを負い、連れて帰るのが難しいので、その者をここで一晩休ませてほしいということらしかった。
話を聞いた主人はイコを呼び、急いで空き部屋の支度をするよう言いつけた。そうしてイコが食堂を出ようとした矢先、別の男が現れた。二十歳ほどだろうか、背が高く、線の細い優男に見えたが、従者が彼を殿下と呼んだことで、食堂にいた他の人間は皆改まった。
「迷惑をかけてすまない。明日の朝には迎えを寄越すので、それまで面倒を見てやってくれないか」
殿下の声は威圧的ではなく、かといって神々しいものでもなく、その辺にいそうな青年と変わらなかった。顔つきも肖像画より随分穏やかに思える。私は親近感を覚えたが、それは次の瞬間、嫉妬の炎によって焼き尽くされてしまうのだった。
「ところでこの少女はそなたの娘か?」
殿下はイコに目をつけられたようだった。イコはイコで、目の前に天使が舞い降りたかのような顔で硬直していた。私は無意識のうちにポケットのネックレスを握りしめ、ことの成り行きを見守った。
主人がかしこまって紹介すると、殿下はイコの手をお取りになった。
「そなたを妻として迎えたい。後日、使いを寄越すのでそのつもりでいてくれ。すまないが今は怪我人を休ませてやりたいのでな。頼むぞ」
殿下は用件を伝えると出て行かれ、イコはしばらくその場に立ち尽くしていた。
イコが殿下の妻に?
私もまた、衝撃から立ち直れず、身動きできずにいた。
主人に声をかけられたイコは飛び上がるように食堂を出て行った。私に一瞥をくれることもなく。
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