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嘘つき
雪の最期には立ち会えなかった。
電話は病院からで、突然のことだったと。故人と家族の希望で、病院に来てもらっても最期の挨拶はできないと。それから、お通夜も葬儀も近親者だけで行われると。
はじめて人を恨んだ。春子さんを。
電話で何度も止められたし、理性では無意味なことは十二分に承知していたけれど、それでも行かずにはいられなかった。
大通りまで出ても、タクシーはいっこうにつかまらなかった。急いで家に戻り、自転車を引っ張りだした。ずいぶん乗っていないけれど、処分しなくてほんとうに良かった。
病院に着いたのは深夜二時になる頃だった。
電話で言われたとおり、なにもなかった。
年配の警備員を突き飛ばして病室に行っても、雪のいたベッドはまっさらの白いシーツがあるだけだった。
さっきの警備員が警察を呼ぶだの呼ばないだの騒いでいる。謝る気は起こらなかったし、正直どうでもよかった。
雪の担当の弥生という看護師さんが来て、場を静めてくれた。警備員は去っていき、数人の事務員とも看護師ともわからない人たちも去っていった。
ぼくと弥生さんだけが残った。弥生さんは待合スペースのソファーで眠るなら毛布を貸してくれると言った。ぼくは自転車で帰るのでいいと断った。
一階の出口に向かう途中、ナースセンターの前で少し待ってほしいと言われた。薄緑の照明のせいで、何色かわからないソファーに座り、ぼくは待った。目を閉じればすぐにでも眠れそうだった。そのまま一生眠って過ごしたかった。
雪さんから。
あなたに渡してほしいって。
眠気が一瞬で飛び去った。ひったくるように差し出されたものを奪う。
本だった。
雪がベッドでいつも読んでいた本。
サガンの『一年ののち』だった。
嘘つき。
感情が溢れ、視界がぼやける。
その本は、一度、言ったじゃないか。
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