■送り込まれる使者

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■送り込まれる使者

 秒速二十八万五千キロメートルで八年のあいだ旅をしていた『彼女』を守りきった宇宙船の外殻シールドが、段階的に展開して大気を捉え、一気に減速を強めた。  沈黙していたモニタルームの中、横一直線で肩を寄せ合い三列、四十名ほどの人間がわっと歓声と拍手で湧き上がる。しかしそれもつかの間、すぐに水を打ったように静まり返った。  正面の巨大スクリーンには、開いた外殻が大気を受けて、最後の仕事を全うしようとしている様子が映し出されている。数値と情報から映像化されたシミュレーションは、四・二光年先の惑星での出来事を高精度で描写していた。  綿密な計算により徐々に速度を落としてプロキシマ・ケンタウリbの大地を目指した宇宙船が、重力圏内へと身を投じて数分。地表に対して平行に拡がった外殻の内側に搭載された機器は、ひとつずつシグナルをグリーンに変え、降り立つための準備を滞りなく進めていた。 「エアブレーキ稼働。降下速度時速千六百、五百……」  淡々としたオペレータの実況を聞く者たちに、緊張が浮かぶ。スクリーンや個々のモニタを見つめる瞳は、青、灰、緑、茶とみな異なるが、抱く想いは共通していた。  発見から三十二年。あとわずかで、その研究成果と栄誉を得るか、費やした時間と何億ドルものコストが無に帰すかが決まる。ある者は神に祈るように手を組み、ある者は唇を噛み締め、ある者は眉間に深い皺を寄せていた。  最後列の端でしばらく様子を見ていたが、やはり前で見ようと席を立つ。 「ミリア?」  隣に座るブロンドの男に呼びかけられたが、構うことなくスクリーン前へ向かった。  周囲がNASAのロゴ入りのブルーシャツを纏う中、未理亜は一人、シンプルな黒のタンクトップとタイトスカートの上に白衣を羽織っていた。後頭部で一つに束ねた青みのある黒髪が、立ち止まった瞬間背に真っ直ぐ落ちる。  数人のカメラクルーがレンズの狙いを定めにきた。  この計画がどんな結果を迎えようが、これから時の人となる若き博士の姿を捉えておこうとしたのだろう。しかし未理亜は一瞥もくれず、右耳のイヤホンを指で押し込んだ。流れてきたのは、日本で放送中のライブニュースだった。 「――各国共同で開発された惑星探査用ドローン、『てんとう虫(レディ・バグ)』を載せた、宇宙船ピューパが、地球から四・二光年離れた先にある系外惑星、プロキシマbへ向かうべく、国際宇宙ステーション(ISS)を離れて八年。間もなく、到着の報せを受信するとのニュースが入ってまいりました」  今ごろここの映像も世界で流れていることを思い、カメラに背を向け、スクリーンの端に映る他国関連機関の内、日本の様子を窺った。ここヒューストンの十七時は向こうの朝七時にあたるが、誰一人眠そうにしている者はいない。 「このドローンには、事前に応募された一千万人の情報を登録したマイクロチップと、量子力学を応用したEPR通信機器が搭載されています。惑星の重力と遠心力を利用し加速するスイングバイ、爆発的な推進力を得る反物質の対消滅を利用したエンジン、加えて照射型のマイクロ波推進などを駆使して実現した亜光速飛行。日本が誇る宇宙工学の権威、辻透吾博士と、娘の未理亜博士両名の研究が功を奏し――」  この管制室の張り詰めた空気を知らぬ朗らかな女性の声に自分の名前を挙げられ、未理亜は眉を動かした。何を告げる気かと耳を傾けるも、父娘の話題は軽く触れられたのみで次に移った。 「エマ・ブルックス博士が新たなアプローチを考案したこの通信は、遠く離れた場所でもリアルタイムでの情報の受信を可能にしました。太陽系外の生命居住可能領域(ハビタブルゾーン)にある惑星が一体どのようになっているのか。レディ・バグは、何を見つけ、私たち人類に届けてくれるのか。歴史的な瞬間が、間もなく訪れようとしています」 「『成功率わずか二割』と好きに騒ぎ立てておいて、見事な手のひら返しだな」  かすかな不満を日本語で呟いて、未理亜はイヤホンを操作し、ニュースから元の実況に切り替えた。  左腕にはめたリストレット型の端末の画面をスワイプすると、縦長のディスプレイが立ち上がる。上下に二つ、グラフの枠が表示される。  縦軸は0と1、横軸は時間で構成された簡素な矩形波(くけいは)グラフの中間に、漂うような実線が描写されていく。『MONITER ROOM』の枠で囲まれた上部のそれは0と1の比率の均衡を保った線を描いているが、『LADY BUG』とある下部はまだ枠組みだけだった。未理亜は頷くように瞬いたあとで、再び正面に視線を戻した。  十分な減速の役目を終えた外殻が、外れて散った。研究チームの面々が声を上げて称え合うが、それもまたすぐに静まる。  内殻シールドのさらに中、核の内部で『彼女』がスタンバイ状態に入ったことを、スクリーンに割り入った映像が知らせる。地球からピューパに向かって照射し続けた推進用マイクロ波から問題なくエネルギーを得ていた証拠に、また別のチームが大きな歓声を上げた。 「レディ・バグ、スタンバイ。ピューパ垂直角度〇・五度。ロケットエンジン逆噴射まで三・二・一」  内殻底部に突き出た四本の管から、勢いよくガスが噴き出た。これにも成功しいよいよ、と周囲に安堵が滲み出す中、未理亜は涼しい表情で、手元の画面とスクリーンを交互に見る。上部のグラフに、わずかながら変化の兆しが窺えた。 「地表まで一〇〇、内殻分離。レディ・バグ放出カウント」  シミュレーション上で、噴射のエネルギーを使い果たして『彼女』を放つ為に尽力した内殻が四散する。堅牢な蛹を模した核が羽化するように割れると、そこから半球形のドローンが飛び出した。  部屋の中で拍手が沸き起こる。しかし直後誰かが鋭く叫び、皆は手を止め息を飲んだ。  巻き上げられたのかドローンの高度が一気に上昇し、平衡を示す値が異常を弾き出す。さらに不安を煽るように、アラートのビープ音が部屋中にけたたましく鳴り響いた。 「高度三〇から急上昇。回転してバランスが――!」  差し迫った声が状況を伝えようとしたすぐあと、スクリーン上での『彼女』はシミュレーションをノイズで乱し、映像処理を置き去りにして暗転した。  上がりきった高度の数値が今度は猛烈な勢いで減っていく。誰かが吐いた溜息が伝播して動揺が走る。頭を抱える者もいた。だが未理亜は変わらず平静なまま、手元のグラフに刻まれる数値を見て口角を上げた。  保たれていた0と1の均衡が、やや1寄りに偏ってきた。このモニタルームにいる者たちの高揚した意識を、装置がつぶさに感知している証拠だ。 『未理亜。0と1は運命を分かつ数字だよ』  幼いころ聞いた父の教えがふと、脳裏を掠めた。  その言葉はいつも、科学の原点に未理亜を呼び戻す力を持つ。有か無かを決定づける小さくも大きな隔たりが、その二つの数字のあいだにあるのだと。  ドローンは惑星の重力に引かれ続け、とうとう高度はゼロになった。地面に叩きつけられた音もその瞬間の映像もなく、どよめきが曖昧な空気を呼んだ。黒いままのスクリーンには、丸く見開かれた多くの目が映り込んでいた。  誰もが固唾を飲む中、未理亜は小さいながらも力強く命じる。 「飛べ、レディ」  四・二光年先にいる『彼女』に届くはずはない。だが、『彼女』は未理亜に応えたかのように、平衡の正常値を取り戻した。  ビープ音がやみ、ゼロだった高度が少しずつ数字を重ねる。  満ちていた静寂を切り裂くように誰かが「ブラボー!」と叫び、憂いが消え去って高揚が生まれた。さまざまな色の瞳が期待に輝き、その後映る手筈の映像を待った。  ジッと乱れた画面の外側から1ビットの粒子が中央に集まり、アルファベットを並べた起動メッセージを形作る。 『Hi Daddy』  プログラムに組み込まれた『彼女』の覚醒を知らせるシンプルな挨拶は、まるで赤子が初めて喋った瞬間を目の当たりにした親のように、研究者たちを湧き立たせた。  次いで写るのは灰色の大地。放射線の影響でノイズが混じってはいるが、比較的鮮明にそのゴツゴツとした地表を写し出す。空中を浮遊する『彼女』の影もまた、写り込んでいた。半球形の基幹部に半円の翼が左右に広がった姿は、てんとう虫が飛翔しているような様相をしていた。 「映像受信。確認しました。レディ・バグ、ランディング成功です」  この日最大の、爆発したような歓喜に部屋が揺れる。そこにいた全員が立ち上がって手を打ち鳴らし、喝采を交わして大きな歓声が空間に溢れる。  ある者は飛び跳ねて拳を振り上げ、ある者は涙を流し、ある者は安堵の溜息を漏らして椅子に崩れ落ちた。オペレータが続ける報告も、興奮の声色を隠しきれていない。  未理亜はそれらを聞きながら唇を引き結び、手元に視線を落とす。上のグラフは変わらず1寄りの偏りがあるが、下のそれは、矩形波グラフのあいだに均衡を保った折れ線を描き始めた。あの惑星でも、この部屋と同じように装置が稼働したようだ。  未理亜は顎を沈めてディスプレイを戻し、スクリーンに目を向ける。端に映る他国機関の様子も、ここと似た状況であることが見て取れた。  その中の日本にいるはずの一人の職員を探す。仲間と肩を抱き喜びを露わにしている父の顔。それを確認して、未理亜はようやく頬を緩めた。  二〇四七年九月三十日。八年前に地球を離れた惑星探査用小型ドローン、愛称『てんとう虫(レディ・バグ)』。四・二光年離れた場所にある系外惑星、プロキシマbから『彼女』が発信した情報を、地球に住む者たちは、この日ようやく受け取った。 「プレスは平気でしたか」  研究棟への連絡通路に未理亜が出て間もなく、白衣の青年が日本語で尋ねながら合流した。凛々しい目鼻立ちに色素の薄い細髪。長い脚が踏み出す一歩は大きく、早歩きの未理亜に悠々と追いつく。 「無視した。注目すべきは私じゃない」  銀色の扉の前に二人が並んで立つと、認識された顔がそこに映り、英字と漢字で名が浮かんだ。  辻未理亜。篠原日向(ひゆうが)。両者ともその先を許可された研究者であることを示すように扉がスライドし、二人は中へ歩み入った。 「成功おめでとう、未理亜」 「だから私じゃないよヒュー。私の父の功績だ」 「でもここの一部じゃ有名な噂です。レディ・バグの試作機は、辻透吾の十にも満たない娘がプラモデルを組み立てるように作ったと」  なめらかに語る横顔を薄目で見て、未理亜は呆れたように息を吐く。 「ただの噂だ」 「この上ない名声を得られたでしょうに」 「私の助手に甘んじてるお前が言うな」 「甘んじてる? このポジションを狙って僕の失脚をどれだけの者が待っていると思うんですか。むしろ銃撃されないかひやひやしてる」  廊下横に広がるリラクゼーションエリアの傍らで足を止め、日向は未理亜を見据えた。 「僕ら研究者たちの娘(レディ)のプロトタイプを生んだ辻未理亜の下で働きたい人間は、いくらでもいるんです」 「知るか。大体お前こそ、自ら成果を生めるだけの実力があるだろうが」 「そんなの十年後でも結構。それより今は、レディが見せてくれる未知の光景を見守る方がずっと有意義です」  米国生活が長いせいか、大げさな物言いを母国語の端々にまで及ばせる彼は未理亜の三歳年上だが、未理亜に対して慇懃な態度を崩さない。飄々と言ってのける怜悧な表情を、未理亜は見上げながらねめつけた。 「ヒューの日本語はまどろっこしい」 「来週の帰国に備えて慣れておきたいと僕にまで強要したのは誰ですか」 「あーあー私だな」 「未理亜こそ、僕が着くまでにインタビューで横柄な態度とらないでくださいよ」  では、と日向が白衣を翻してカフェスペースへ向かうのを嘆息して見送ったあと、未理亜は自室へと戻った。  ライトと壁のモニタが自動で点灯する。室内は白い箱のような造りをしており、リビングスペースには黒いテーブルとソファがあるだけだ。青いドアの先は、ラボと仮眠室が広がっている。  モニタに映るレディ・バグの設計図とレポート、それから0と1のグラフを見ながら未理亜はどかっとソファに腰掛け、「父にコール」と告げた。モニタの一角がコール画面に切り替わった。 「やあ、未理亜」  父、辻透吾の顔が映り、未理亜は流麗な発音で「ハイ、ダディ」と返す。透吾は愉快そうに声を出して笑い、スッと伸びる眉を愛しげに下げた。  品よい顔には老成が滲むものの、シャープな目に宿る光は若々しい。顔は未理亜と似ていないが、青みがかった真っ直ぐな黒髪は同じ遺伝子を感じさせた。 「元気そうだね」 「八年辛抱した割には父さんも」 「二十三の君の八年は長いだろうが五十も過ぎればすぐだ。だがとても待ち遠しかった。感無量だよ」  透吾の目に光るものを見て、未理亜にも淡い感慨が湧いた。幼少より間近で感じ続けた開発リーダーの熱意。成功の喜びは功績以上であることが見て取れる。 「レディは飛ぶって信じてた」 「私もだ。君の頭脳はやはり太陽系には収まらない」  透吾はふ、と柔和な笑みを落とした。未理亜は呆れ顔でふん、と鼻を鳴らす。 「工学博士(とうさん)はポエマーだな」 「自他共に認める親ばかでね」  ふやけた父の表情に未理亜は首を竦め、話題を変えるべく、左腕の端末を示すように顔の傍らでひと振りした。 「乱数発生器も稼動した。予想外の到着劇も手伝って、比較用でモニタルームに設置した方は1寄りだった」  レディ・バグの背には、設計者である透吾が密かに搭載した装置がある。十歳の未理亜が理論を展開し、透吾と二人で造り上げた機器。一ミリ四方まで縮小することに成功した、乱数発生器のチップだ。  本来は、量子的な揺らぎを利用して0と1をランダムに発生させる代物である。稼働すれば、それぞれの発現率は平均的に1対1となる。  だが、この均衡が崩れる時がある。要因となるのは、集合した人間の意識に基づく情動だ。興奮や感動、怒りに悲しみ。つまり、多くの人間の心が強く動かされた状態になると、その平均は1寄りに偏る。かつて米国を襲った同時多発テロや、ネバダ州で行われるバーニングマンのイベントでも確認された現象である。  未理亜はこれを、今回のランディングを中継するモニタルームにも設置していた。数値は予想通り、1を多く弾き出す結果となった。 「意識は空間を浮遊する」  未理亜は確信を持って告げ、続けた。 「知性、感情の昂り、強い意識。神経系の特定分子の共鳴でも受けているのか。具体的なことは立証されてなくても、数値にはこうして現れるんだ」 「心が目に見えないのと同じだね」  透吾が穏やかに言う。 「同様に、地球外生命体が僕たち人間の目に必ずしも見えるとも限らない。レディが活動限界を迎える二か月のあいだに、なにか応じてくれたらいいね」  設計段階で手筈通りの承認を得ようとしたら、間違いなく却下されたであろう計画だった。ゆえに秘密裏に搭載し、二人のあいだで秘匿したのだ。もしもなんらかの意識を持った知的生命がいたら、それが反応することを願って。  プロキシマbの荒涼とした空間からレディ・バグが送ってくる0と1。それは時折1に偏るものの、均衡を保っているかのように見えていた。 ※続きはKindleでお楽しみください https://amzn.to/326O6OT
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