第1章

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 仕方なく、俺はまた腰を下ろした。  婆さんは何も言わず、しぐさで湯呑についだお茶を勧めてきた。ここで騒いでも仕方ないので、俺は一口茶をすする。 「しかし、あんたも大変だねえ」 「は?」  いきなりおかしなことを言われて、何と答えればいいのかわからなくなる。 「だって、その歳でまっとうに働かないで泥棒だなんて。。さぞかし、辛い思いをしてきたんだろ?」  俺は腰を浮かせ、立ち上がりかけた。 やっぱりこの婆さん、別にボケているわけではないようだ。俺を油断させるためにボケたフリをしていたらしい。でも、何のためにそんなことをする?  「そんなに怖がらなくてもいいんだよ。あんたの気持ちが分かるからね」 「わかるって……?」  婆さんは少しさみしそうな顔をした。 「私もね、小さいときは貧乏で、金持ちの家に働きに行ったことがあるんだ。その家には女の子がいてね。その子は綺麗(きれい)な洋服も、人形も持っていて、私を顎でこきつかうんだ。同じくらいの年齢で、同じ女なのに、どうしてこうも違うんだろうと思ったよ。その子の人形や髪留めを、黙って持って行ってしまおうかとも」  婆さんの、しわくちゃの手が俺の頬に触れた。 「でもね、正しく生きていればきっといい事がある、そう思って生きてきた。この歳になるまで、なんとか。それにあんたはいい子だよ。こうやって私に顔を見られても、殺そうとも殴ろうともしないんだから。もう、泥棒なんておよしよ」  婆さんの手は暖かかった。ふいに、無くしていた記憶が蘇った。いつの歳の時だったか誕生日の日に母は俺の頬をなでてくれた。俺にはそれがとても嬉しかった。  婆さんは、俺を励ますために引きとめたのか。そうだ。ここを出たらまっとうに生きよう。  頬に伝わるぬくもりが、心の奥にある鉄のように冷たく硬い物を溶かしさっていくようだった。  そのとき来客を告げるインターホンが鳴った。 (まずい!)  もし客が入ってきたら。 「はいはい、誰でしょうね」  婆さんはぶつぶついいながら玄関に向かった。  そのスキに、俺は押入れの中に入り込んだ。改心したとしても警察に捕まるのはまっぴらごめんだ。  押入れの中は暗く、戸の隙間から見える線状の光の他はほとんど何も見えなかった。布団が積まれているので、その上に横たわり胎児のように身をまるめる。  頭の先にも布団が積み重なり、塔のようになっていた。
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