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サイレントレター(1話)
寝ぼけた頭のまま、古いアパートの玄関先に出ると、久しぶりに見た人の良さそうな顔。
ああ、大家さんどうしたんですか?なんてヘラっと笑った相坂翔太に、その老人はニコニコと残酷な通知を告げた。
「まじかよ!!……っ、ほ、ほんと、ですか……っ?」
「何度も相坂君には別回覧も入れてたのに……退去日言ってくれないから不安に思ってたんだよ?」
大家が告げたのは立ち退きだった。どうやら、大規模な改修工事のためらしく、元の住人には出て行ってもらい、家賃なども一新するそうだ。
そういえば、このアパート、人の気配しないな、なんて翔太はずれたところで納得した。何度も通告もしたし、回覧も回していたのに、全く返事がなかったので、大家側も「まあ、そうだろうな」という反応であった。
ここ最近、仕事が忙しくて全く自宅にいなかった翔太は、どうしようと高身長を猫背にして、頭を掻く。
「いや、すんません……仕事でずっといなくて……し、知りませんでしたっ」
「もう何ヶ月も前から掲示板でも回覧板でも入れてるし、仲介業者からも連絡いってるでしょ!」
「ああ、あの不在着信……」
「留守電つけてないの?流石に連絡行ってると思うんだけど……」
「すみません……」
兎にも角にも平謝りだ。向こうが最大限の努力をしてくれたことはわかっている。きっと自分がいない間に決定にあたっての同意書だの委任通知だのきていたのだろう。しかし、本当に無頓着に過ごしてしまっていた。こんなことが世の中にありうるのかと思うが、ここ数ヶ月で急に忙しくなった自分のキャパ不足を痛感するだけだ。
翔太が本来は少しきつめの顔付きを情けなく歪めるものだから、大家は呆れてしまって、どうにかしたいのは山々なんだけどねえ、とすまなさそうに苦く笑う。
「とにかく。期限は今月末だから」
「ええっ!三日後じゃないすか!俺、もうすぐ舞台が始まってっ、ひ、引越しの日程もとれないっす!」
「仕方がないでしょ。取り壊し日程はもう決まっちゃってるんだよ。何回部屋に寄っても不在だし……平日も土日もいなかったでしょ」
「そ、そんな………すみません……ちょっとイベントも稽古も立て込んでて日中はずっと部屋に戻ってなくて……」
「そんな長身かがめて言われても仕方がないよ」
「……すみません……」
もう、すみませんすみません、しか出てこない。大家ははあと大きなため息をついて、とにかく、と続けた。
「もうどうしようもないことだから。相坂君もとりあえず誰かのところに仮住まいできるかだけでも決めてきて」
じゃあ、私はこれで、と大家はその場を去ってしまった。翔太は一人でそこに立ち尽くす。舞台の千秋楽の余韻に浸っている暇などなかった。
「どうしよう……」
明日から、どこに住めばいいのだろうか?
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