0人が本棚に入れています
本棚に追加
「丸川さん、名残惜しいでしょうが、今日はこれから風が強くなってくるそうです。この大荷物では大変ですし、電車が止まってしまえば殊更ですから、できるだけ早くお帰りなさい。それにきっと、お昼もまだなのでは? お腹もすいてくる頃でしょう」
「そう言えばそうでした」
思わずお腹に手を当てた。
「では白井先生、これを。来週の会議に必要な書類などの用意よろしくお願いします」
教頭はプリントを数枚、彼に手渡した。
「わざわざ御足労ありがとうございました」
「丸川さん、卒業おめでとうございます。どうぞこれからも、元気でやってください」
「ありがとうございます。先生もお元気で」
ニコリと微笑み、教頭は美術室を去って行った。
「……ありゃ、色々見透かされてんな」
「そうなの?」
「あの人はおっかない人なんだ。たぶん俺とお前が昔馴染みだってことも知ってんじゃないか?」
「えー、私誰にも言ったことないけどなぁ」
風が強くなるならば、私も早く帰ろう。用意してもらった大きい紙袋に工作品と画用紙を詰め込む。
「それじゃあ帰るね」
「いや待て、忘れ物あるぞ」
「え、これで全部じゃないの?」
「全部じゃないぞ。ほら、手出せ」
言われるがままに手を出すと、銀色の鍵が手に落ちてきた。
「それ、俺の部屋のだ。もう教師と生徒じゃないからな。これからはいつでも来いよ」
「え、何その偉そうな言い草。私が行ってあげるんでしょ」
悪戯っぽく笑う彼に、私は力いっぱい睨む。が、効果はないらしい。落描きを施した窓に目をやると、最初に描いた犬の散歩をする人や、彼の描いたクジラは姿がぼんやりしていた。
「まぁどっちでもいいよ。新生活落ち着いた頃でも、なんとなく家にいたくない時でも、白井真白になりたくなった時でも、俺はいつでも待ってるから」
「…卒業証書もらったとはいえ、私まだ制服着てるんだけど、そんな堂々と生徒口説いていいの?」
「禁断の空気を楽しめるのは今日が最後だからな」
「馬鹿じゃないの?」
じゃあね、と勢いよく美術室の扉を左手で閉めた。右手にはしっかりと貰った鍵を握りしめて。
*
白井の残った美術室の窓ガラスには、二人のらくがきがまだ少し残っていた。
最初のものは白に戻りつつあったが、最後に描いた結婚式と、彼女の描いた桜の花びらだけは、薄ぼんやりとだがハッキリと形を残していた。
最初のコメントを投稿しよう!