クジラ雲

36/36
118人が本棚に入れています
本棚に追加
/219ページ
「勘違い?」 「名前だよ、名前。クジラって、あれ苗字から取ってるだけだから。海の(クジラ)に井戸の井で『鯨井(くじらい)』。これが僕の苗字」 「えぇっ!」 てっきりファーストネームなのかと思っていた。 今流行りの奇をてらうような名前なのだと。 苗字だったのか。しかも鯨井。わりと渋い。 「名前なのかと思ってた。愛称だったのかぁ」 「愛称ってわけでもないけどね。クジラなんて呼ぶの、富永先生だけだし」 その呼び名が不満なのか苦笑いを浮かべると、彼は階段の最後の段をふわっと飛び越えた。 話に夢中だったせいか、気が付くとすでに一階まで下りて来ていた。 彼は廊下を右手に向かって歩き始め、私も小走りで隣に並ぶ。ほどなくして、こちらに向き直ると軽く左手を挙げた。保健室は目の前だった。 「じゃあね。屋上の鍵、返さないといけないし」 「何だか、色々すみませんでした」 失礼千万の数々、すみません。 「敬語」 呆れたように彼は首を傾げ、 「あ、」 慌てて口を塞ぐ。果てし無く高い『先輩へのタメ口』の壁。これはシュレーディンガー方程式より難題かもしれない。 そんな下らない事を考えながら、小さな息を吐き出した時、 「ねぇ莉子ちゃん、内緒にしててくれないかな」 一階の廊下には男子生徒が数人歩いていて、そこには当たり前のように笑い声がさざめき、何ら変哲の無い光景だと私は背後で聞き流そうとした。 「え、富永先生のこと?」 「いや……僕と莉子ちゃんが、知り合いだって事」 「何で?」 たけど、背後を通過する生徒の一人が囁くように発した声は、目の前の彼の言葉と共鳴しているかの様に、不気味な音で私の耳を侵蝕した。 「僕は、疫病神だから」 「あ、疫病神だ……」
/219ページ

最初のコメントを投稿しよう!