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act.05
やっとできあがった新しい眼鏡をかけるマックスを見て、眼鏡屋の店員はお世辞にも「その眼鏡、お似合いですね」とは言わなかった。
理由はわかっている。店員が薦めた縁なし眼鏡をマックスが選ばなかったからだ。
結局マックスは、時代遅れもいいところの分厚い黒縁眼鏡を買った。
理由は、単純に言って、そちらが安かったからだ。無職の人間が贅沢をするわけにはいかない。
「ありがとうございました。またどうぞ」という気のない女性店員の声を背に、マックスは通りに出た。急に視界が鮮明になったせいで、マックスは2、3回瞬きする。
マックスは、腕時計で時間を確認すると、「ちくしょう、遅れた」と悪態をつきながら、レイチェルと待ち合わせをしているカフェに向かった。
ランチタイムを迎えたレイチェル行き付けのオープンカフェはどの席もいっぱいで、マックスはレイチェルを探し出すのに一苦労した。
なにせレイチェルの馴染みの席は、店の一番奥まったところにある席で、ともすればウエイターにさえも忘れ去られそうな席だったからだ。だが、逆に言うと気兼ねなく長居できたり秘密の相談をするにはもってこいの席でもあった。
奥の席に座るレイチェルは、赤いピンストライプが入った黒のパンツスーツを颯爽と着こなしており、首には鮮やかな深紅のスカーフを巻き付けている。一見しただけでは、とても報道カメラマンとは思えない。身長さえあれば、ファッションモデルといってもおかしくないほどのセンスの持ち主だ。
しかし一旦現場の撮影になると、たとえどんな高価なドレスを身に纏っていようと、足を大股に開いて(場合によっては地面に寝ころんで)撮影を始めるというのだから肝が据わっている。マックスは、そんなサバサバとしたレイチェルの性格が好きだった。
一方、マックスはといえば、数年前にメアリーの見立てで購入して以来一度も袖を通していないダークグレイのスーツに、やたらと目立つ黒縁の眼鏡、そして右手には紺色の紙袋という何とも冴えない出で立ちだった。紙袋の中には、飲み屋で借りっぱなしになっている黒のコートが入っている。
レイチェルに言われるまでもなく、その借り物のコートが高価な代物であることはマックスにもわかっていた。滑らかなタッチの着心地は見た目の軽やかさに比べ、着込むと随分温かい。カシミヤかそれ相当の良質天然素材に決まっている。
そのコートは、クラウン地区の飲み屋には少々不釣り合いのコートだった。もっとも、朝起きた時は飲み屋の店内には誰もおらず、目の前のテーブルに店の鍵とバーテンダーが残していったメモ書きがあったのみで、そのメモには「コートは着て帰れ」という言葉の下に鍵の閉め方と、所定のところに鍵を隠しておいてくれという指示だけされていた。前の晩の記憶がまったくないマックスとしては、結局メモ通り行動するしかなかったのである。
マックスがやっとの思いでレイチェルのいる席まで辿り着くと、レイチェルはマックスの姿を見るなり、あからさまに嫌悪感いっぱいの表情をしてみせた。恐らくマックスの新しい眼鏡に、彼女もまた興ざめしたのだろう。
マックスが紙袋を床に起き、席についた途端、開口一番こう切り出した。
「その眼鏡、どこで買ったのよ。どんな店員が薦めたのかしらないけど、その店は1年以内にきっと潰れるわね。間違いなく」
マックスは、苦笑しながら手を横に振った。
「いいや、俺が選んだんだよ。店員は別のを薦めてくれた。縁のないやつとか」
「どうしてそっちにしないのよ。あんた、元の顔はいいんだから、もっと自分を磨く努力をしなさい」
「いいんだよ。別に女じゃないんだから。磨きかけなくったって」
「あのねぇ」
ご注文は?と、ウエイターが注文を取りにくる。
「なぁ、レイチェル。ここ何が美味いの?」
「生ハムサンド」
「それのセットメニューありますか?」
「コーヒーとフレンチフライド、それに軽いサラダがついたものならありますが」
「じゃ、それをひとつ。レイチェルは?」
「あたしはもう頼んでる」
「あそ」
ウエイターの後ろ姿を横目で見ながら、レイチェルは大きな溜息をついた。
「あんた、もうちょっと自分のこと可愛がったら? あんた見てると、いつも何かに対して意固地になってて人生を損しているような気がするわ。そんなのだから、メアリーだって・・・」
「レイチェル」
「 ── ごめん」
レイチェルは苦々しい表情をして、視線を外した。
暫くの間、2人の間に嫌な沈黙が流れる。
レイチェルは、メアリーとも仲がよかった。
メアリーはレイチェルと正反対のタイプの女性だったが、2人は不思議とウマが合っていた。
メアリーは、保守的な考えを持つ両親の間で育ち、慎み深くお淑やかな女性になることに全神経を配らなければならなかった。しかもそれが当たり前だと信じていたところにレイチェルのような女性に出会ったのだから、それは新鮮な衝撃だったのだろう。
メアリーがレイチェルに懐く形で2人は急速に仲良くなった。
メアリーは純粋に、レイチェルのような生き方に憧れを抱いてしまったのかもしれない。
メアリーが、あの日突然マックスの元からいなくなったのは、彼女なりの自由な生き方を模索した結果とも言える。
なにせマックスは、プロトタイプのお嫁さん ── つまり黙って家庭を守ってくれる妻 ── を必要としていた。だがマックスのその期待は、メアリーにとって、両親に次ぐ新たな重石に他ならなかった。メアリーは、マックスより先に自分探しの旅に出かけたのだ。
メアリーは、他の男と一緒に逃げて以来、完全に音信不通となっている。
メアリーは、知り合いの誰一人(それにはレイチェルや両親も含まれる)にも行き先を告げなかったし、逃げてから後居所を連絡してくることもなかった。
マックスのことを気に入っていたメアリーの両親は、現在メアリーを勘当扱いしている。
気まずい2人の間に、ウエイターがランチを運んできた。
「お待たせしました」
レイチェルと同じオーダーをしたせいか、2つ同時にランチが運ばれてくる。ウエイターがわざわざ気を利かせたのかどうなのか、そのお陰で2人の間の嫌な空気はうまい具合に薄れていった。
「早いな。こいつは本当に美味そうだ」
マックスは、早々に生ハムサンドにかぶりついた。
温めなおしたブレッドに、程良い塩味のきいた生ハムのスライスが3枚とオニオン、それにシャキシャキのレタスが挟んであり、粒マスタードとマヨネーズのソースと荒引きの黒胡椒がかかっている。値段の割には、なかなか気の利いた一品だった。
コーヒーの方もなかなかのもので、香りも濃さも申し分ない。マックスは、そのドリップコーヒーを慎重に啜ると、大きく溜息をついた。
そんなマックスを見て、レイチェルは気が抜けたかのように鼻で笑う。
「何よ、あんた。やっとまともな食事にありつけたって感じね」
「ああ、その通りさ。病院じゃまともに昼食なんかとれないからね。売店で売れ残って固くなったパンとか、冷え切った中華の出前とか。病院の中じゃ、医者が一番不健康な生活をしてるよ」
レイチェルが、ハハハと声を上げて笑う。その少女じみた高い笑い声に、周囲に座る客が一瞬マックス達に注目した。けれどレイチェルは、そんなことはもう慣れっこなのか、別段気にすることなく、付け合わせのポテトを摘みながら会話を続ける。
「で、仕事探しの方はどうなの?」
「どの会社も新人採用した直後の時期だから、なかなか厳しいってとこかな。まぁ、まだ職探し始めて2日目だし。そう簡単にはね」
「ふーん・・・。あ、そうそう、ここ受けてみない?」
レイチェルが、黒いナイロン製のバッグから緑色の封筒を取り出す。マックスは、生ハムサンドの残りをコーヒーで流し込みながら、その封筒を手に取った。
「ミラーズ社? このミラーズ社って、あのミラーズ社?」
「そ。スポーツ用品からNASAが採用する新素材の開発までを手広く手がけるミラーズ・カンパニーのことよ」
マックスは、訝しげにレイチェルを見た。
「こんな時期外れに採用試験なんかやってるのか?」
「まぁまぁ、中身を見てから言ってよ」
マックスは、封筒を開ける。中の書類を開くと、そこには『ミラーズ社専属社医退職に伴う人員募集』とあった。
「へぇ・・・、流石スポーツを専門にしてる大会社だけあって、専属の社医がいるんだ」
「そうなのよ。しかも常任よ。凄いわよね」
「で、ここを受けてみろと?」
「断る理由はないでしょ? 給料はいいし、各種手当や福利厚生も充実してるわ。なかなかの好条件じゃないの。今時ないわよ、こんなところ。それにあんた、学生時代は趣味でスポーツ医学の研究もしてたんだし、救命救急の最先端に3年もいたのよ。応急処置のプロなんだから相手にしてみても申し分なしよ」
上機嫌で可愛らしくしゃべるレイチェルに、マックスはいまだに訝しげな表情を崩さない。
「で、レイチェル。何が狙いなんだい?」
レイチェルは一瞬口を噤んで、じっとマックスを見た。
「別に、何も」
「レイチェール」
マックスが作り笑いを浮かべると、レイチェルは観念したように肩を竦めた。
「うそ。本当は、あるの。山ほど」
レイチェルがそう言いながら、先ほど封筒を取り出した鞄から、今度はクラフト製のファイルを取り出す。そして中に挟んでいるモノクロ写真をマックスに見せた。
「ジェームズ・ウォレス。37歳。ミラーズ社社長の首席秘書をやってる男よ」
レイチェルが、数日前に同僚が言った言葉をそのまま繰り返す。
マックスは写真を見ながら、妙な気分になっていた。
── この人、どこかで会ったような気がする・・・。
「その男のことをいろいろ教えてほしいのよ。もし受かったらの話だけど」
「・・・教える・・・?」
マックスは写真を見ながら、暫しレイチェルの言ったことを咀嚼する。そしてその意味を理解したマックスは、露骨に顔を歪めて、写真から顔を上げた。
「俺にスパイみたいな真似をしろってこと?」
30過ぎても今だお転婆なこの従姉妹は、いつも突拍子のないことを言い出す。
── また突然何を言い出すやら・・・。
マックスは、呆れ顔でレイチェルを見つめた。
「俺にそんな芸当ができる訳はないだろ?」
「もちろん、そんなこと期待してないわよ。あんたのバカ正直さはあたしが一番よく知ってる」
レイチェルは、逆に開き直ったようだ。
「あんたはただ単に、彼に会った時の印象とか、どんなことを考えてる人間なのかということを世間話程度で話してくれればいいのよ。別にミラーズ社の企業秘密を盗んで来いとは言ってないわ」
「レイチェルにしちゃ、随分遠慮がちな申し出だね。そんなことぐらい、そっちのコネで調べた方がいいだろ? あの爆弾処理班の刑事はどうしたんだよ。もう別れたのか?」
「セスの方のコネはもう使ってみたのよ。それでてんで駄目だったんだから、究極の戦法を使おうとしてるんじゃないの」
「え? 警察のコンピュータでも何も出なかったの?」
「ま、セスがコソコソやっただけだから当てにはならないでしょうけど。それにしたって恐ろしいほど記録がないわ。まっさらで、きれいなものよ。出身地から生年月日、出身校まで一通りの在り来たりな記録はあるけど、それが当てになりそうにないの。セス以上にね」
「何だか、穏やかな話じゃないね」
「まぁね。学校にも問い合わせてみたけど、確かに卒業生名簿には載ってるものの、みんなよく覚えてないのが現状よ。これほどの男が、記憶にも残らない地味な生徒だったなんて、ちょっと不気味だわ」
「で、レイチェルは何でこの男のことを調べてるんだい? 何か事件でも起こしたとか」
レイチェルは、コーヒーを啜りながら、首を横に振った。
「別にそんなことはないわ。あるとしてもこれから先のことね。本当はね、この男のことを調べてるのは、ケヴィンなの。私はただのオマケ。けどケヴィンも八方塞がりでやる気なくしてるし、かといってこのまま放っておくにはスッキリしないし。だって気になるじゃない? 電話一本で敵対している企業を潰してしまえる男が、社長秘書だなんて冴えない役職に甘んじているだなんて。おまけにこの男、こんなハリウッドの役者並の容姿をしているくせに、一切表に出ようとしていないわ。その気になれば、業界のスターダムに昇り詰めることも可能なのに、自分の手柄も人に与えてしまうような男よ。そうまでして頑なに隠れようとする意図が、きっと彼にはあるはず。このままでは済まさないわ。久々のスクープものですもの。ケヴィンだって2、3日もすればきっとやる気になってくるわ。彼はそういう人だし。私だって、白黒はっきりしたいの。それがブンヤとしてのプライドってものでしょ?」
レイチェルの過剰なまでの探求心は、時として暴かれる側の人間達には忌み嫌われることが多々あったが、彼女のこの探求心によって過去、様々な真実が追求され、明るみに出たことは多い。そしてこの探求心こそが、彼女をエネルギッシュに輝かせている要因のひとつだった。
マックスは、そんな彼女がうらやましいとずっと以前から思っていたし、小柄な身体で周囲の男達と互角に渡り合おうとする彼女を可愛らしくもあり、健気でもあり、応援をしたいとも思っていた。
「・・・けどダメね。やっぱりダメ。あんたを巻き揉むのは間違ってる。悪かったわ。あんたをこんな茶番につきあわさせるなんて、あたしも無茶言うわよね。いいわ。なかったことにして」
マックスが何かを答えようとする前に、レイチェルはさっさと写真をファイルにしまい、マックスの手の封筒を取ろうとした。
マックスが、その手を握る。
レイチェルは、目をマックスに向けた。
「駄目かもしれないけど、一応受けてみるよ。── なんだ、面接今日なのか。話は早いじゃない。もし合格すれば無職からも脱出できるし、会社専属の医者なんて患者の死に目に遭遇するなんてこともないだろうしね」
マックスが、笑顔を浮かべる。
その優しげで美しい笑顔をもっとちゃんと見たくて、レイチェルはマックスの顔から眼鏡をそっと抜き取った。
「もっと笑ってよ、マックス。悔しいけど、あんたの笑顔、大好きよ」
丁度その頃、イングランドの片田舎にあるパブ『フィリップズ・パブ』は、貸し切りのどんちゃん騒ぎの真っ最中であった。
島の北東部に位置するこの町は、何の特徴もない小さな町である。
強いて何かを言うとすれば、町民のほとんどが漁業に勤しんでおり、年中寒風が吹く暗い色の海に毎日船を出すような生活を送っていることと、町から北に向かって丘を越えたところに重罪人が収監されている刑務所があるということだった。
町にはパブが2軒しかなく、そのうちの1軒フィリップズ・パブは、主人のジョン・フィリップが頑固者であることで有名だった。ジョン・フィリップは不愛想で時折オーナーであるバーテンが客に怒鳴りつけるようなところがあり、一筋縄ではいかなかったが、彼の作る地ビールがめっぽう美味く、それ目当てで来る馴染みの連中が多かった。
今日も、店の中は、馴染み客でいっぱいだった。
今日は今年で43になるハインツがやっと結婚できるとのことで、そのお祝いパーティーにパブの中は熱気に包まれていた。皆、手に手に自家製の黒ビールの入った大振りのグラスを持ち、少々古びた流行歌を合唱していた。
その店の片隅のテーブルで、ひとつの議論が持ち上がりつつあった。
その議論のメンバーは、魚の薫製工場を持っているロッドと墓守のポール、そして今はもう隠居生活をしているヨハンだ。
議題は、少々アル中気味のヨハンが、先日ゾンビを見たことについてだった。
「またそんないい加減なことを言って」
ロッドが、店内の合唱に負けないような大声で切り返した。ポールが、ロッドの持参したニシンの薫製をかじりながら、ヨハン老人を訝しげに見る。
「ヨハンよぉ。俺は長年、町外れの墓守をずっとしてきた。俺の親父も、その親父もずっとそうだ。それなのに、人魂ならまだしもゾンビなんていい加減なもの一切見たことなんかねぇし、聞いたこともねぇ。またどうせ随分酔っぱらっていたんだろう」
ポールの言葉に、ヨハン老人は明らかに気分を害したようだ。彼は、持っていたグラスを乱暴にテーブルに叩き置いた。幸い店の中が騒がしかったので、そのことに気づく者も大しておらず、パーティーに水を差すことはなかったが。
「わしは、嘘なんか言っとらん。本当にこの目で見たんだ。死人が、墓からこう這い出るのをな」
ヨハン老人が、ゆっくりした動作で、テーブルの下から這い上がるような動作をする。
「それこそお前の家に行く途中だったんだ。とっておきの酒が手に入ったんで、お前と飲もうとその時は本当にほとんど素面だったんじゃから。けれど、お前の家に行くまでに通り過ぎる墓場でそれを見たもんだから、酒瓶を放り出して逃げ帰ったという訳だ」
まともに顔を指さされたポールとしては、いささか気分が悪い。
何せ自分は、墓場の外れにある掘っ立て小屋で一人暮らしをしている。もしその話が本当なら、いくら墓守が仕事とはいえ、生きた心地がしない。
「なぁ、ヨハン。それならなぜ今まで黙ってたんだよ。聞けば10日も前のことじゃないか」
身体を震わせているポールとは違い、あくまで他人事のロッドは、いたって平然とした顔で話を続けようとする。ヨハン老人は大げさに肩を竦めて見せた。
「わし自身も夢だとばっかり思ってたんだ。じゃが、今日ここに来る前にあそこの道を通ったら、わしが落とした瓶が割れたまま転がっていて、あれは夢じゃなかったと思った」
ロッドが口笛を吹く。
「なかなかできた話じゃねぇか。なぁ、ポール」
「冗談じゃねぇ。作り話にしても、背筋が薄ら寒い」
「作り話なんかじゃないって、さっきからあれほど言っとるじゃろうが!」
ヨハン老人は、嘘つき呼ばわりされることがどうにも許せないらしい。
「50ポンド賭けたっていい!」
それを聞いて、ロッドがけたたましい笑い声を上げる。
「こりゃ、傑作だ。そいつは面白い。なぁ、ポールよ。今からそのゾンビが這い出した墓を暴きに行こう。もし中で死体が腐ってたら、50ポンドはお前のものさ。もし棺が空だったら、ヨハンに軽く酒を奢ってやって、新聞にこのネタを売りつけりゃいい。どっちにしろ、損はない話だろ? 新聞社はネタに飢えてる。高い金でネタを買ってくれるさ」
ロッドが、ポールにそう耳打ちをする。最初は渋い顔をしていたポールも、ロッドのアイデアに、次第にその気になってきたらしい。
「ようし、わかった。ヨハンよぉ。あんた、その墓の場所を覚えているんだろうな」
「ああ、覚えているとも」
「それじゃぁ、これから確かめに行くとしよう」
3人は、同時に席を立った。
ミラーズ社のロビーにある受付カウンターでも、ちょっとした議論が起こっていた。
古風な洋服を着た老婆を伴ったブロンドの青年が、その議論の中心にいた。
冴えないデザインの眼鏡越しに見える青年の美しいグリーンの瞳に最初は愛想がよかった受付嬢も、青年の粘り腰に閉口して今は警備員にタッチ交代をしている。
「ご婦人がケガをしているんだ! その態度はないだろう!」
青年がそう噛みついてくるが、ミラーズ社の警備員として5年のキャリアがあるトーマス・サイズは、こんなことがもう慣れっこになっていた。
ミラーズ社ぐらいの大きな企業になると、直接苦情を言いつけにやってきて、あわよくば何かしらのサービスを受けようとする輩はごまんといる。そんな場合、サイズがミラーズ社の苦情担当係のオフィスに連絡を取ることになるのだが、老婆の顔を見た瞬間、その必要もないとサイズは判断した。
「婆さん。何度来ても同じだって言っただろうが」
サイズの台詞に、老婆が啜り泣く。
老婆は上等なよそ行きの服を着ていたが、袖口からこぼれ出ているレースは茶色く汚れていた。
「あんた達は、いつもあたしの言うことなんか聞いてくれないじゃないか」
サイズは溜息をつく。大げさに泣き声を上げる老婆に、ロビーを行き来するスーツの男達は、呆れた視線を投げつけた。
どうやらこんな茶番劇はいつものことらしい。
ミラーズ社の社員どころか、ミラーズ社に出入りする得意先のサラリーマンでさえ、気の毒そうな視線をサイズに向けていった。
だが、サイズの目の前にいる青年だけは、そうもいかないらしい。彼は明らかに敵意がこもった瞳で自分を見つめていた。
サイズは再び溜息をつく。
このイギリスかどこかのお坊ちゃまのような顔つきをした青年は、まるで世間の汚れ事とは無縁に育ってきたのだろうか。その真摯な濁りのない瞳をサイズに向けていた。
── この坊やは、こんな殺伐とした弱肉強食の社会にはまったく向いてない。
サイズがそう思ったのも無理はない。
この青年の年の頃は、20代前半から半ばといったところだろうか。
どちらにしても、今までこんな大企業の受付には縁のなかった人物といって間違いない。
「婆さん、バカを言うのも休み休みにしてくれ。またこんな、前も後ろもわからないような坊やを捕まえて騙そうだなんて、そうは問屋が下ろさない」
サイズの言い草に、青年はカッと頭に血を登らせたらしい。
青年がサイズの胸ぐらを掴んでくる。
青年はサイズより幾分長身だったので、上から睨み付けられる形になった。
「いい加減にしろよ。俺は医者だ。このご婦人が足首を捻挫されているのは確かだし、彼女は入口の階段でここの社員に突き飛ばされたと言っている。それに俺は坊やなんかじゃない。じきに30になる男だ。坊やなんて失礼な言い方はやめてもらおう」
しかし、そんな青年の虚勢もサイズには通じない。サイズはこの警備員の仕事が天職だと思っていた。会社の安全面については絶対に守り通す自信とプライドを持って仕事をするような男だった。そんな男が、いかにも育ちのよさそうでナイーブそうなこの青年の脅しぐらいで怯えるようなことはない。
サイズは、死んだ魚のような瞳で青年を見やってから、老婆に目をやった。
「いい加減にしろと言いたいのはこっちの方だ。婆さん、こんなバカ面した男を証人にしようったって無駄だぞ。金はやるからさっさと消えろ。それが嫌なら、警察を呼んだっていいんだぜ」
サイズは青年に胸ぐらを捕まれたまま、ポケットから小銭を取り出すと、それを床に放り投げた。老婆は、床に散らばった小銭を素早く拾うと、警察を呼ばれちゃたまらないといった感じで片足を引きずりながらそそくさとロビーを後にした。置いてけぼりの青年は、ポカンとした顔つきでその老婆の後ろ姿を見つめている。
「あんた、あの婆さんに担がれたんだよ。あの婆さんは、自分で軽いケガを作っちゃぁ、小銭をせびりに来る。常套手段なのさ。あんたも金を穫られた口だろ? わかったんなら、とっとと退散するんだな」
サイズは青年を突き飛ばす。
不意をつかれた格好の青年は、バランスを崩して床に投げ出された。
その拍子に、彼の荷物が床に散乱する。
黒のコートに筆記用具。ナメ皮製のキャラメル色した財布。緑の封筒。
その緑の封筒は、サイズでも見覚えがあるものだった。
何を隠そう、ミラーズ社の封筒だ。
サイズはその封筒を拾い上げ、中身を確かめた。
中には、青年の履歴書とミラーズ社発行の社医募集に関する書類が入っている。
サイズは、履歴書の写真と床に尻餅をついている青年とを見比べて、呆れた顔をした。
「あんた、うちの会社に面接に来たのか?」
サイズの言葉に、さすがの青年も恥ずかしくなったらしい。
青年は慌てて身体を起こすと、サイズの手から封筒を乱暴に奪い取った。
サイズは、信じられないものをみるかのように口を大きく開け、短い息を吐く。
「面接に来たくせに、あんな婆さんに騙されて、これから雇ってもらおうとする会社に文句をつけたのか?」
青年は、サイズと視線を合わせることなく、赤い顔を伏せたまま、飛び散らかった荷物を黙々と拾い集めている。サイズが大声で笑い出したせいで、エントランスホール中の人間が、ブロンドの青年に好奇の視線を向けていた。
「こりゃ、大した奴だ。とんだお人好しだよ!」
青年は、細々したものを紙袋に突っ込み、コートはなかなかすぐに紙袋に入らないと判断するや、それを腕にかけながら、走り出そうとして後ろを振り返った。
サイズが「あっ、危ない!」と警告する前に、青年は背後に立っていた人物と激しくぶつかる。
身長がほとんど同じだったので、眼鏡が相手の顔に当たり、床に弾け飛んだ。
眼鏡がなかったら、危うく相手の唇に、青年の唇がぶつかるところだった。
「す、すみません・・・」
重ね重ねの失態に見舞われる青年に、流石のサイズも段々と可哀想になってきた。
はっきりいって、サイズでさえ、今青年がぶつかった相手が誰かを確認して、顔を青くしていた。
エントランスホール中が、シンと静まり返っている。
サイズは、今となっては固く口を噤み、青年の度重なる不幸に、同情心を感じざるを得なかった。
なにせ、青年のぶつかった相手は、あのジム・ウォレスだったからだ。
ウォレスは、眼鏡の当たった場所を押さえながら、青年を見おろしている。
青年は、落ちた眼鏡を探すのに必死で、おろおろとするばかりだったが、ウォレスが彼の黒縁眼鏡を拾い渡すと、青年は「ありがとうございます」と言ってそれを受け取った。しかしそのフレームが歪んでいると知るや、明らかに肩を落とした。
しかし、この心優しい青年は歪んだ眼鏡を無理矢理掛けて、「本当にどうもすみません。おケガはないですか?」と心配そうな声を上げて、顔を上げた。と、青年は何をそこに見つけたのか、ウォレスの顔を見ると、酷く驚いた顔をして見せた。青年は、ウォレスの顔を知っているらしい。
「ミスター・ジム・ウォレス・・・」
青年は、小さくそう呟いて、へなへなとその場に再び腰をついてしまった。
青年のその気持ちもわからないではない。
サイズでさえも、こんな形でぶつかった相手がウォレスと知ったら、同じ反応をするだろう。
── こいつは、一生分に値する厄日を、今日一日の間に済ましてしまうつもりらしい。
サイズは、つくづくついていないこの青年に、深く同情した。
マックスは、大きなサファイア色の瞳に冷ややかに見下され、身体を竦めた。
写真で見るより、数段の迫力がある。
身長や体つきから言えば、明らかにマックスの方が若干大きかったが、それにしてもウォレスは、その周りを取り包む空気からして、常人と違っていた。
確かに、レイチェルが拘るはずだ。
恐ろしいほど、格好や雰囲気がいい。
「大丈夫かね?」
少し鼻にかかった落ちつきのあるハスキーな声が、マックスの頭上から降ってくる。マックスはそのウォレスの声に、どこか懐かしさを感じていた。そう、丁度レイチェルにウォレスの写真を見せられた時に感じたものと同じだ。
マックスが、いきなり本命に会ったショックで何も答えられずにいると、ウォレスは少し肩を竦めて、マックスの腕にかかっている黒いコートをチラリと見た。そして再びマックスに視線を合わす。
それにしても、ウォレスの瞳は、素晴らしく鮮やかでしかも深い色を湛えている。
それは、彼の着ている濃紺のジャケットとよくマッチしており、モノクロの写真ではわからなかった別の魅力が付け加わっていた。
その場ですっかり硬直しているマックスを余所に、ウォレスはマックスの紙袋の中に緑色の封筒を見つけ、それを取り出した。
その中身を見て、片眉だけを器用に上げてみせる。
ウォレスは左目だけを細めるシニカルな表情で、マックスを再び見つめた。
「マックス・ローズ・・・か」
ウォレスはそう言って、鼻で笑う。
そのウォレスの態度に、マックスはカチンときた。
ウォレスの言いたいことは、マックスにはわかっていた。
これまで27年間生きてきて、幾度となくからかわれてきたことだ。
『お前、ファーストネームをローズにした方がいいんじゃないか?』
マックスは身体を起こすと、ウォレスの手から封筒を奪い取った。さっきの高慢な警備員にやったように。
「自分がお人好しだってことも知ってるし、名前のことも耳にタコができるほど、からかわれてきた。今更、あんたなんかに笑われる筋合いはない」
マックスにとって、名前と容姿のことを言われるのはトラウマだった。
『バラ』という意味の名字や、深いダークブロンドの髪とアーモンド型の翡翠色の瞳は、常にマックスを悩ませた。
幼い頃から女の子とよく間違えられ、シニアスクール時代は美術の時間に教科書に出てくるラファエロの描いた天使に似ているからと『エンジェル』とあだ名がつけられた。
女の子ならばそれも素直に喜べただろうが、マックスは正真正銘の健全な男の子だったし、常に一人前の男として周りから扱ってもらいたかった。
両親が幼い頃に亡くなっていたせいで、彼の叔母は深い同情心と哀れみの心をもって彼を壊れ物のように扱ったし、学校でもそうだった。マックスはわざとフットボールやボクシングといったような荒っぽい男らしいスポーツを好んでするようになり、インターハイにも選手として選ばれるほどにもなったが、どこへ行ってもそんな調子だから、いつも一人前に評価してもらえていないような気がしていた。
医学生時代は、仲のよかった教授の御稚児さんだと間違われ、研修先の病院でもボケのきた老人に看護師と間違われた。
だが、そんな顔と名前を授けてくれた両親を恨むほど、マックスは悪びれた性格ではない。
彼はその容姿や名前を悪用することなく、むしろそのことに無頓着になることによって、そのトラウマから逃れようとしていた。
マックスが、あのジム・ウォレスにやり返したことは、かなり突飛なことだったに違いない。エントランスホール中の空気が不穏に細波み、警備員が慌ててマックスの肩を掴んで、耳打ちをしてきた。
「あんた、この人がどんな人かわかってるのか? この人に逆らったら、この会社の面接どころか、この街で仕事を見つけること自体難しくなるかもしれないんだぞ・・・!」
マックスにしてみれば、今まで自分を怒鳴りつけていたあの警備員が、ひどく焦った声で自分に助言してくれているのがおかしかった。案外この警備員、人がいい男かもしれない。
マックスは壊れかけの眼鏡を取ると、警備員に微笑んで見せた。その笑顔は、レイチェルを虜にしているあのエレガントな笑顔だった。
「ご忠告ありがとう。俺だって、もうここには就職できないことぐらいわかってるさ。でも、名前のことを笑われるのは好きじゃない。俺にだって、僅かばかりだがプライドはある」
マックスのその潔い笑顔に、流石の警備員も思わず見惚れる。
マックスは、そんなことにも気づかずに、後ろを振り返ってウォレスに一礼をすると、堂々とした足どりでミラーズ社のエントランスホールを後にした。
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