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「鹿に近づいて行ったらよ。一匹だけじゃねぇんだよ。でっけぇツノにでっけぇ体の、凛とした鹿の横にさ、ちいーさな、子鹿がいるんだよ。まだ歩くのもままならねぇみたいでさ、よちよちしてんのさ。『こりゃかわいいね。おめぇさんの子かい?』って思わず聞いちまった。でっけぇ鹿はうんともすんとも応えなかった。ただ、俺に……なんていうんだ、あの、声に出すんじゃなく頭の中にそのまま言葉が入ってくるみたいな……」
テレパシー? と誰かが言った。
「そう、多分それだ、テレパシー。多分、俺とあの鹿は言葉はかわさなかったんだと思うのよ。まるで夢ん中みたいな……いやいや、夢とは少し違うな。言わなくてもわかる、ってやつだ。言葉にする必要なんかなかったんさ。鹿はただじっと俺を見てよ。俺はこう言われた気がした。『まだ向こうに行ってはいけません』ってな。そっから靄に包まれたと思ったら、ここに還ってきてたってわけよ」
老人がフゥと一息つくと、ベッドサイドで背中を丸めて座っていた男が、「わりぃな、俺がまだこんなだから安心して行けるもんも行けなくなっちまうよな……」とつぶやいた。
「その通りよ、まったくバカ息子が。鹿にまで見透かされてんじゃねぇか。恥ずかしいったらありゃしねぇ、天国の前で門前払いよ。ったくよぅ」
老人はかすれた笑い声をあげた。
「あいつは、あの鹿はきっと、天国の番人みてぇな奴なんじゃねぇかなぁ……」
*
ここに来るのもしばらくぶりだな、と老人は思った。
何百段もの階段を息一つ切らさずにのぼり、辿り着いた赤い花畑。
もう少し行くと、きっとあのときの鹿が……
と、やはり鹿の姿が見えた。
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