0人が本棚に入れています
本棚に追加
『Kの昇天』を読破した。他の短編がまだ続いているにも関わらず、僕は『Kの昇天』の最終頁に栞を挟み、文庫本を持って家を飛び出した。
行く当てなどない。ただこのまま、肩の力が抜けたまま、海に着けばいいと思った。しかしここいらに海はない。こりゃ長旅になるな、と呑気に考える。
秋は夕暮れだというが、冬でも夕は暮れるし夕日は赤い。だが鉛の寒空は本来の茜を鈍らせている。その色合いに赴きを感じとるほどの感受性は、残念ながら持ち合わせていないようだ。針が肌を掠めるような北風も茜色には不相応で、鈍さに拍車をかけている。やはり清少納言の言うように、夕暮れは秋に見るのがいいのだろう。
道行く人はマフラーに顔をうずめたり両手に息を吐いたりして、各々寒さに抗っている。僕はそんな光景に抗う。マフラーも手袋もコートも身に着けていない。手に息を吐くことも両手を擦り合わせることもしない。拳をつくることもしないで、『Kの昇天』だけを手に持って、夏場と変わらぬ鈍間な足運びで歩を進める。
だぼついたトレーナーが視界の端に映った。夕焼けにかかる靄と、歩道のタイルと、トレーナー。ほぼ同系色。何と味気ない景色だろう。吐いた息まで似たような色だ。白黒の世界に色彩を添えたくて、手に持っている本の表紙に目をやった。だが檸檬の黄色も、今は映えて見えない。不意に本を持つ手が見えた。指先が紫を帯びている。赤くなるならまだしも、紫にまでなるほど寒くはない。夜が近いといえど日はまだ出ているし、雪が降っているわけでもないのに。不思議に思い手をぶらぶらさせ――本はどこに消えた。
緩慢な動作で地面を確認する。おかしい。タイルがさっきと比べて白く見える。手の指だけでなく、足の指先も感覚がなくなってきている。人の気配がまるでない。なぜだか波のさざめいている音が聞こえてくる。
海だ。
浜辺は白く覆われていた。足跡一つない。僕が今立っている場所が足跡第一号らしい。音のする方を向くと、沈みかけの夕日が海面に映り、波の黒を交えながらゆらゆら揺れていた。僕の目指すものは目の前にある。波打ち際はすぐそこだ。一歩を踏み出せ。
だが、夕日が僕の決心を鈍らせる。
怖気づいたわけではない。ただ、夕日では駄目なのだ。月を待とう。月が出たら、僕はそれに向かって進んでいける。
最初のコメントを投稿しよう!