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日記はそこで終わっていた。
掃除機はそこに置き去りにされたかのようにぽつんと立て掛けてある。どこの家庭にでもある掃除機にしか見えなかった。
私は掃除機の各パーツを眺めた。
本体の色は灰緑色。
集塵タンク、ホース、操作ボタン、キャスター。
無機質な清掃機械の内部には名状しがたいモノが潜んでいて、夜な夜な現れては村本の感覚を麻痺させていったらしい。その感覚は女を抱いているみたいだと、彼は表現している。
私は確かめるべく掃除機を手にした。
金属質のそれでいて吸着性のある肌触り。
スイッチを入れると軽快な駆動音が伝わり、静かな震動に切り替わった。その震動には機械とはちがう不快な含みを感じた。それが何か漫然と考えていると、ふわりと濃密な空気の流れのようなものが目の前を横切った。視界にとらえることのできない、しかし、それは気配をあからさまに示しながらすり寄ってきた。私の足首のあたりから生暖かく湿った息遣いが立ち昇った。濡れた舌がためらいがちに素肌を這うような感触にも似ていた。
甘い囁きが溶けるように耳の奥まで貫いた。
その正体を探ろうとしたが姿はどこにも見えない。知覚だけで微妙な空気の流れを感じ取ることが精一杯だった。それはさらに淫靡なゆらめきとなって、苦痛なく私の中へ潜りこもうとしていた。体の側面から前面から、或いは背後からふわりと包むような触手の蠕動の影を垣間見た気がした。
全身が麻痺していく感覚に、私は戦慄した。
言語とは思えぬ未知の甘美な囁きが、淫らな吐息と化して、私を恍惚の底に沈めようとしている意図をぼんやりと感じた。
私の手は金縛りにあったように動かなかった。
体内の奥で拒もうとする意識と取り込もうとする欲望が相剋しているのだ。そのせいで体が麻痺しているのだろう。
困惑していると、胸のあたりに小刻みで規則正しい震動を覚えた。聞き慣れたマナーモードのバイブレーション機能だった。
ケータイの着信だ。
私はとっさに掃除機のスイッチを切った。
禍々しい愛撫は瞬時に消えさった。
「もし、もし」 ケータイの向こう側から梶田美穂の声が響いた。「きょうは電話してこなかったじゃん、どうしたの」
きょうはいつもの約束を反故にして、彼女に電話をかけなかったことを思い出した。
「あ、ゴメン」
私はすぐに謝り、友人が行方不明なったことを伝えた。
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