〔1〕ある医者――烏鷺《うろ》恭介

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〔1〕ある医者――烏鷺《うろ》恭介

 医者と患者の間にはマリアナ海溝よりも深い溝がある。  なぜそう思うか、だって?  B大学病院で勤務医をしている僕――烏鷺(うろ)恭介は、大学病院の外来で、毎日、患者を診ているけれど、ただの一度だって患者と心を通わせたことがないからだ。医者が患者と心を通わせるなんてバカバカしいと思う人もいるかもしれない。けれど、僕は、研修医時代に先輩から言われたある言葉――「医者の仕事は病気を治すことではなく、人間を治すことだ」――をずっと信じてきた。「胃だけで生きている人間や心臓だけで生きている人間はいない。それに患者には心もある。検査の数値やエビデンスだけに頼るな。もっと広い視野で患者を診ろ」。先輩はそう言った。  でも現実は厳しかった。  患者はいつだって「病気を治すこと」だけを求めてきたし、医者って仕事は「人間を治す」なんて理想論を言い続けられるほどヒマじゃなかった。僕は怒涛のように押し寄せてくる患者をさばくのに精一杯だった。月曜から金曜まで外来スケジュールはみっちりだ。水曜と木曜の午後には手術もある。診察の合間をぬって、学会用のプレゼン資料も作らなければならないし、月に四回は当直のせいで36時間連続勤務になった。最初のうちは無理がたたってよく風邪を引いたものだ。そんなとき、声をかけてくれたのは、年上の看護師だった。だがそれは親切心からではなかった。彼女はきれいに整った唇から「医者のくせに、自己管理がなってないわね」と悪魔のような言葉を吐いた。  こうして数年が経ち。  今度は教授の論文の代筆を頼まれるようになった。もちろん代筆だから自分の名前は出ない。自分の名前で投稿したければ、別の論文を書かなければならない。ただでさえ、診察やその他もろもろで手一杯なのに、この上、自分の論文を書くための研究なんてできるはずもなく、僕はあっさり、自分の論文をあきらめた。運よく「nature」などの有名雑誌に掲載されれば出世は思いのまま。教授にだってなれる――論文はそんな「魔法」の道具だったが、今の僕が欲しいものはそんなものではなく、睡眠時間だった。  当直の日、僕は、仮眠室の畳の上にゴロンと横になると、天井を見つめた。 (ずーっと一生、このままなのかな?)  そのときの僕の頭の中には、あのときの先輩の言葉など、なに一つ残っていなかった。
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