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ミーンミンミンミン、ミィィィィ
弦を震わすような蝉の声が小麦色の腕に滲みて、さりげなく後ろで手を組んだ。
「これ、あげるよ」
無言を貫くわたしに何を思ったのか、店長さんが唐突にそう言って、手にしていた白いトレニアを押し付けてきた。仕方なく腕を戻し、柔らかくて頼りない黒いポリポットを手のひらに乗せる。押し付けられたから受け取ったものの、瞬時に戸惑いが満ちた。何の脈絡もなく、大人にモノをあげるなんて言われたら、代わりに誘拐でもされるのかと思ってしまう。
「あの…どうして?」
「上手に接客できなかったお詫び」
「でも」
「いいの、いいの」
満足そうに頷くので、ぎこちない下手な笑顔を返したが、上手に接客っていうけど、わたしはこの店で花を一度も買ったことないから、お客さんでも何でもないわけで。そもそも人見知って、上手に気が遣えなかったこちらにも問題があるわけだし。どうやって断れば良いか、手の上の可憐な花びらを見ながら思案していると、店長さんは確認するような口調で言った。
「明日はね、シロ、シフトに入ってるから」
何だか違和感を覚えて顔を上げると、丸い鼻と目元の皺、それから満足そうに上がった口角が目に入ってきた。もしかしてわたしも、シロ目当てで来たと思われてたんだろうか。
あの、あからさまな美白化粧水の女性たちと同じで。
カァッと両頬が熱くなる。
そこにあった感情は、苛立ちと、羞恥と、それから…。
「いえ、そんな!わたしは蕾が気になって来ただけだから!」
突然の剣幕に、店長さんは目をぱちくりさせながら「そ、そっか」と頷いた。挨拶も忘れて、勢いよく踵を返す。そして無心で、駅までの道のりを脇目もふらず走った。アスファルトの照り返しが下半身を焼き、煮えた熱風が上半身にまとわりつく。蝉の声が、繰り返し旋回する。汗が吹き出す。肺が悲鳴をあげて、足が絡まる。でも、止まっちゃダメだ。止まったら、先ほど感じた靄のような灰色の恐怖が、アスファルトをメリメリ突き破って現実のものになり、もがき苦しむ未来を連れてきてしまう気がする。
ポットの土が散乱し、斜めがけしたスポーツバッグの蓋がバタバタ音を立てた。それでも構わず走った。
明日は行かない。絶対、行かない。店長さんは誤解してる。
シロがいてもいなくても、わたしには関係ないんだから!
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