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駅に近づき、電車のスピードが落ちる。開いた窓から流れ込む空気に、ペトリコールの成分が混じってるのが分かった。と、同時に、ポツリと窓ガラスを滴が叩く。それは瞬く間に車窓全体に広がり、視界は荒れた水玉模様になった。
「さいあく」
慌てて窓を閉める。明日にも廃車になりそうなこの箱は、冷房というものがまるで効いてない。暑さに湿気が加わって、粘つく汗がだらだらと首筋を流れる。
瓦屋根、緑の屋根、ビニールハウス、ビニールハウス。
雨を受け止めながら、ゆっくりと窮屈な景色が流れる。光を失ったこの風景は、いかにも哀れだ。真白な半袖シャツのみぞおちあたりをぎゅうと掴むと、電車の震動と心臓の音が混じって、湿った奥から規則的に右手を打った。
「時間よ、進め」
貸し切りの車両で唱える、いつものおまじない。
「時間よ、進め」
早く大人になりたい。
「時間よ、進め」
念ずればいつか叶う気もする。昨日もそう思った。毎日そんな気がしていて、でもなかなか叶わないな。そんな気がしていた時、視界の端に何かが映った。そこだけ余熱で陽が射しているかのように、ぴかぴか光っている。
何だろう。
目を凝らす。
UFOか、隕石か、いや何でも良い。神様。日々を早回しできるアイテムを、わたしにください。
その光る物体を両目で捉えた時、わたしは(覚えている限り)人生で初めて、自分の瞳孔が開くのを自覚した。吹き込む風が目に染みて、涙が浮かぶ。車窓の動画が、マイナス二十倍速のスローモーションに変わる。光って見えたのは、或るビニールハウスの前に佇む誰かの後ろ姿だった。叩きつける雨に打たれながら、その人は平然と空を見上げていた。
まるで雨を全身で吸い込んでいるかのように。
その人がゆっくりと振り返る。纏う光の色が少し濃くなる。男の人だった。視界が悪すぎて、何度も瞬きをした。白く霞むその先で、彼は柔く、微笑った。
わたしに微笑いかけた。
思わず立ち上がる。膝に置きっぱなしだった問題集が、何枚もページを折り込みながら床に転がり落ちる。
時間よ、止まれ!
「止まれ止まれ止まれッ」
ただでさえ遠い彼が、遠ざかる。光が薄くなる。目が、離せない。
その人は更に遠くなり、小さくなり、やがて瓦屋根の奥に隠れて消えていった。
キィィィィ。
ひどい金属音をたてて電車が止まった。
そして。
わたしの中の秒針が、カチリと音をたて始めた。
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