小さな約束

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 闇の中を何かに追われるように必死に走っている。走っている理由など分からないのに何かから逃げなければという焦りで胸がいっぱいだった。どれくらい走った頃か、足が縺れ転んでしまった。おかしい。転んだことなど最近は滅多にないのに。起き上がろうとすると足が何かに掴まれた。振り返ると、闇から無数の手が俺の四肢を掴む。必死に抵抗してもそれを振りほどくことはできない。どんなに悲鳴を上げても俺を助けてくれる人はいない。この手をどけなければ。早く、早く、早く。 「っーーーーーー!!」 時雨が勢いよく身を起こすとそこは見慣れた自室だった。身体には嫌な冷や汗がまとわりつき気持ち悪い。掴まれたのは夢の中なのに、起きた今でも四肢を掴まれているような気がして心の臓が落ち着かない。 「なんて夢を見たんだ....俺は」 これは単なる過去の幻影だ。意味を含んだ夢ではない。深呼吸をしながら何度も自分に言い聞かせる内に、ようやく心の臓はいつもと同じ速度の鼓動に戻る。すぐに汗と悪夢の名残を落とさなければと、時雨は早足で風呂場に向かった。  風呂から上がった後に騰蛇に髪を乾かしてもらっていると、騰蛇が怪訝そうな顔で此方を見る。 「どうした時雨?顔色がよくない」 騰蛇は俺が生まれた頃から親同然に俺のことを見てきた式神だ。僅かな変化にも気づくのだろう。それでも平常心を装う。 「...何でもない。気のせいだろう」 「そうか?身体が不調なら無理をするなよ」 騰蛇は納得のいかない顔をしていたが、その後は無言で髪を結い上げてくれた。その後夕飯を済ませると、浴衣を脱ぐ。大丈夫だ。あの時の痕など残っていない。それに安心すると鬼祓いの闇に紛れる装束を纏い、手甲を嵌める。この作業一つ一つが心を刃のように研ぎ澄ませていくのだ。動揺など鬼祓いには要らない。得物を身につけ呪符を懐に入れると、時雨は闇に沈みだした外に足を踏み出す。闇に染まり始めた空を見る時雨の瞳は、政暁と過ごして居る時とは比べ物にならないほど冷たい色で染まっていた。
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