空っぽの部屋

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 壱弥さんは元来た階段に向かっていく。その後ろに続く葵を追いかけようとした時、鉄格子の隙間から壱弥さんの車の端に不審な物陰が動くのが見えた。驚いて道路を見下ろすと、空色のTシャツに白いエプロンをした中年女性が壱弥さんの車を撫でるように見つめていた。 「壱弥さん、なんか変なおばさんが車の中覗いてる!」  階段を下りかけていた壱弥さんは、怪訝な顔で私の隣から視線を落とす。  中年女性は一頻り車内を覗き込んだと思うと、手でボンネットを叩きながら大声をあげた。 「誰や、人ん家の前に無断でこんな車停めたんは!」  私と葵はそのおばさんの姿を見ているだけで顔面蒼白の思いであったが、対照的に壱弥さんはにやりと笑った。 「ついてるで」 「えっ、何が?」  私の問いにも気付かない程、足早に階段を下りた壱弥さんは、瞬く間に例のおばさんの側まで歩み寄っていった。  彼がおばさんに張り倒されはしないかとドキドキしながら、私たちはアパートの影から彼の様子を伺う。 「すみません、それは僕の車です。ご迷惑をおかけしてすみません」  壱弥さんは悪気のない好青年を装いながら、頭を下げる。そしてとびきりの笑顔でおばさんの両手を取り、身体を屈めて彼女を見下ろすように顔を近づけた。 「この謝罪は改めてさせていただきますので、よろしければご婦人のご住所とお名前をお教えいただけませんでしょうか」  相手の個人情報を聞き出そうとするその声は、相手を誘惑するように柔らかく透き通る。  端正な顔立ちの青年に間近で囁かれたご婦人は、頬を赤らめまんざらでもないように自身の名前を溢していた。 「もしかして、ご婦人はこの『鴨川流荘(かもがわるそう)』の大家さんではありませんか」  その言葉を聞いたとき、全てが繋がった。壱弥さんの企むような微笑みも、似合わない王子様ボイスの好青年も、大家であるこの婦人の気を許すためのものだったのだろう。同時に、自分の顔が人よりも整っていることを自覚しているタイプのイケメンなのだと気付かされる。  葵も「なるほどねぇ」と関心するように呟いた。
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