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残された室内に微かな寝息が響く。
私は貴壱さんを真似るように彼の頬に指先を当てた。柔らかく指腹を押し返す感触は、確かに彼が生きているということを示す。それなのに、どうして彼の顔色はこんなにも白く、動かない人形のように眠ったままなのだろう。
まだ、彼に言いたいことは沢山ある。
文句や、冗談や、感謝の言葉だけではない。まだ私は彼について何も知らない。
「壱弥さん。私、まだまだ壱弥さんに聞きたいこといっぱいあるんやから」
彼がどのような人生を歩んできたのか。彼がどんな人に囲まれて育ち、どんな人を愛してきたのか。この探偵という仕事に就く前には、どんな出来事があったのか。
――祖父と、どんなことを話し、学んできたのか。
無意識に零れる涙を拭い、私はもう一度椅子に座り直した。そして、呼吸を整え貴壱さんから受け取った彼の手帳を静かに開く。
そこに綴られているのは、壱弥さんらしい少し歪な文字だった。愛用している瑠璃色の万年筆が吸った、美しいインクブルー。その色のある文字を一つずつ目で追っていく。
彼はどうしてこんなにも誰かの為に成すことができるのだろう。
そこには、壱弥さんが一人で調査を進めていたであろう大事な事柄が細やかに記されていた。
同時に、冷たい水が背筋を這うような感覚が押し寄せた。
記される、たった一つの情報から展開されていく推理が、寸分の狂いもなく動く歯車のように恐ろしく精巧なのだ。そして紡がれる推理は滔々と流れ、樟夫妻を救う手段へと繋がっている。
ただ、彼の描く推理には一つだけ問題点があった。
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