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深く静んだこの場所に、訪問者を知らせる呼び鈴が響いたのは約三十分後のことであった。腕時計の代わりに鞄に取り付けた金色の懐中時計は、まだ約束の時刻の十分前を示している。
未だに眠り続ける壱弥さんに代わって、失ってしまった大切なものを取り戻すために、私は二人の人物をこの事務所に呼び出していた。恐らくはそのうちのどちらかが到着したのだろう。
扉を開くと、その先に佇んでいたのは物憂げな表情をした男性――望さんであった。
望さんは私の誘導に従いながら事務所のソファーへと腰を下ろしたあと、変わらず憂いた表情のまま深々と私に頭を下げ、先日の出来事についての謝罪を述べた。
主計さんから聞いた話によると、望さんはここ数日間の仕事を全てキャンセルしているそうだ。それも現状を考えれば仕方のないことなのかもしれない。しかし、憔悴した望さんの顔を見ると、その精神状態を案じずにはいられなかった。
望さんは声の調子と共に僅かに視線を落とす。
「栞那が春瀬さんに依頼をしてたことは主計から聞いてます。僕の浮気調査をしてはったそうですね。さすがにちょっと驚いたんですけど、それを聞いてやっと栞那の奇妙な行動の理由がわかった気がします」
「奇妙な行動、ですか?」
妙に引っかかった彼の言葉を繰り返すと、望さんは頷き、低く沈んだ声で続けていく。
「自宅に、僕が仕事場として使ってる書斎があるんです。栞那は僕の仕事の邪魔をしたらあかんからって、書斎には殆ど立ち入ろうとしませんでした。それやのにここ二カ月程、僕が出掛けている間に書斎の掃除をしてくれるようになったんです」
深刻そうな彼の面持ちとは裏腹に、その事実だけを聞くと特別奇妙な行動とは思えない。
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