851人が本棚に入れています
本棚に追加
携えた大切な記憶の欠片を在るべき人の元へと返すために、私は真っ直ぐに病室を目指していた。事件から四日経った今もまだ、彼からの連絡はない。
光が映える白い廊下を進み、辿り着いた個室の扉を開いた瞬間、どうしてか懐かしい香りが微かに抜けていった。
柔らかい斜陽が照らし出す病室のベッドには、変わらずに彼が静かに眠っている。しかし、先日とは異なって彼を取り巻く機器は殆ど失くなっていた。
随分と良くなったということなのだろうか。
私が恐る恐るに足を踏み出した途端、長い睫毛の目がうっすらと開かれた。
「壱弥さん……?」
震える声でその名を唱えると、虚ろな瞳が私に向けられる。その目は幾度かの瞬きを繰り返したあと、とろりと瞼が落ちていく。
まだ完全に目を覚ましてはいないのだろうか。
そう思った瞬間、その目はぱっちりと開かれ、確かに私の姿を捉えていた。
「おはよう、遅かったな」
少し掠れた声で彼は淡い笑みを溢す。
「おはようって……もう夕方やん……」
「それもそうやな」
くすりと笑いながら、壱弥さんはベッドに肘を着き、ゆっくりと上体を起こす。ほんの少しだけ痛みを堪えるように片目を瞑ってはいたが、直ぐにその表情は穏やかさを取り戻した。
「もう、起きてもいいんですか……?」
私の問いかけに、彼は小さく頷いた。
「おいで、ナラ」
低く撫でるような彼の声音はどこか艶やかで、その言葉はこの身体を招き寄せる。そして、彼に近づくと同時に、両手が私の身体をふわりと優しく包み込んだ。
余りにも唐突な出来事に、私は何が起こったのか分からなかった。
「ごめんな、怖い思いさせて」
耳元で囁く優しい声と私の髪を撫でる彼の大きな手が、胸の鼓動を煽っていく。そして、頬に密着する彼の身体から伝わる体温が、これが夢ではない確かな現実であることを物語る。
「はい、……壱弥さんが死んでしまうかもしれへんって思ったら凄い怖かったです」
「あぁ、ごめんな」
滲んでいく視界の中で、私の言葉に呼応するように、壱弥さんはもう一度私を抱きしめながら柔らかく微笑んだ。
その瞬間、私はようやく気が付いた。
私の心の依所は、ここにある。
──第四章『路地裏の月影』終
最初のコメントを投稿しよう!