雨の降るカフェと嘘

3/11
836人が本棚に入れています
本棚に追加
/328ページ
 壱弥さんが名刺を差し出し、花田さんについての話をすると、直ぐに状況を飲み込んだようだった。 「二葉ちゃんに会ったのは先週の月曜日が最後です。春瀬さんが仰る通り、引っ越しするって言って挨拶に来ましたよ。何でも、お母様がご入院されて、実家のある倉敷に戻るとかで」 「それはご本人が?」 「えぇ、間違いなく」  秋帆さんは静かに頷いた。彼女が俯く度に、睫毛にかかる照明が白い頬に影を落とす。 「因みにその時、彼女は誰かと一緒でしたか」 「いいえ、一人だけでした」 「そうですか、ありがとうございます」  たったそれだけのやりとりで、壱弥さんは秋帆さんに深く礼をした。そして席を立とうと僅かに椅子を引いたとき、店の隅から現れた男性が、暖かいコーヒーと艶のあるクロワッサンを机に差し出した。 「どうぞ、ごゆるりと」  秋帆さんが表情を綻ばせながら言った。  甘く焦げたバターの香りが、コーヒーの芳ばしさと絡まるように溶けていく。早々に退席しようとした壱弥さんも、彼女の計らいを受けて一息着くことを選んだ様子だった。 「すごく良い匂いがしますね」  感嘆の声を漏らし、キラキラと目を輝かせる葵を見て、秋帆さんは口元に手を当てながらくすりと笑う。 「あなたが葵ちゃんやね。そしたら、あなたがナラちゃん?」  彼女の問いに私は小さく頷いた。まるで初めから私達の事を知っているように、優しい視線をこちらへ向ける。私たちの顔を見比べながら、どこか懐古しているようにも感じられた。
/328ページ

最初のコメントを投稿しよう!