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壱弥さんが名刺を差し出し、花田さんについての話をすると、直ぐに状況を飲み込んだようだった。
「二葉ちゃんに会ったのは先週の月曜日が最後です。春瀬さんが仰る通り、引っ越しするって言って挨拶に来ましたよ。何でも、お母様がご入院されて、実家のある倉敷に戻るとかで」
「それはご本人が?」
「えぇ、間違いなく」
秋帆さんは静かに頷いた。彼女が俯く度に、睫毛にかかる照明が白い頬に影を落とす。
「因みにその時、彼女は誰かと一緒でしたか」
「いいえ、一人だけでした」
「そうですか、ありがとうございます」
たったそれだけのやりとりで、壱弥さんは秋帆さんに深く礼をした。そして席を立とうと僅かに椅子を引いたとき、店の隅から現れた男性が、暖かいコーヒーと艶のあるクロワッサンを机に差し出した。
「どうぞ、ごゆるりと」
秋帆さんが表情を綻ばせながら言った。
甘く焦げたバターの香りが、コーヒーの芳ばしさと絡まるように溶けていく。早々に退席しようとした壱弥さんも、彼女の計らいを受けて一息着くことを選んだ様子だった。
「すごく良い匂いがしますね」
感嘆の声を漏らし、キラキラと目を輝かせる葵を見て、秋帆さんは口元に手を当てながらくすりと笑う。
「あなたが葵ちゃんやね。そしたら、あなたがナラちゃん?」
彼女の問いに私は小さく頷いた。まるで初めから私達の事を知っているように、優しい視線をこちらへ向ける。私たちの顔を見比べながら、どこか懐古しているようにも感じられた。
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