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これ以上話していたら、彼女に当たり散らしてしまいそうだと思ったぼくは、ベンチから腰を上げた。
「ここに入院するお母さん。わたしの本当のお母さんじゃないもの」
抑揚も何もない声が風に乗って飛ばされた。
一瞬、聞き間違いだと思い、その場で固まったぼくは、未だベンチに座る彼女を見下ろした。
ゆっくりと顔を上げた彼女の顔は真剣そのもの……というよりも、そこには何の感情も見出すことのできないほど冷めた無表情があった。
この時初めて、ぼくは嫉妬や憎悪に満ちた目よりも、漆黒の闇に呑み込まれそうになる「無」の色が一番恐ろしいと感じた。
多分それは、明るく、笑顔を絶やさない彼女が見せたからこそ、余計にそう思えたのかもしれない。
彼女が何故、そんな顔をしたのか。
答えは歴然。
彼女もまた、ぼくと同じで「幸せな家族」を演じているだけで、心の底から幸せだと感じていないのだ。
ぼくは後悔した。
何気なく漏らしてしまったぼくの一言は、きっと彼女を深く傷つけた。
それを笑顔で受け流せる人がこの世にどれぐらいいるだろうか。
一度口から出した言葉は、もう二度と戻らないとはよく言ったもの。
例え反省したところで、彼女の心に黒い染みを落としたことは消せやしないのだ。
懺悔の気持ちから、ぼくは冷めた視線を受け止めた。
これから話されるであろう彼女の告白を聞く覚悟を決め、ゴクリと喉仏を上下させた。
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