§9

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「このままだとカルパッチョの魚の鮮度が落ちる。無駄にするくらいなら一人前作って出してやるから、客のふりして食え」 「んなわけにいくか、ボケ」  二人のかけ合いを、雫はどこか羨ましいような思いで眺める。  売上が芳しくない状況で、店長の稲村の心痛は察するに余りある。その苦労をねぎらってやろうとする長谷川の優しさも、それを潔しとしない稲村の責任感も、どちらも仕事をする上で欠かせないものだ。それを、特に構えるでもなくふざけた会話に紛れ込ませる二人を、雫は素直に尊敬する。  そして、申し訳なさに胸が塞ぐ。  この状況を招いた責任の一端は自分にある。「フォルテ」のことはこの二人にも、もちろんのこと片瀬にも、一言も明かせないと思った。すべて打ち明けても誰も雫のことを責めないだろうという気はしたが、相談したところで何も解決しない。  メニューを盗まれた明確な証拠があるわけではない。知名度は向こうの方が圧倒的に上なので、下手に騒いでも売名行為だとうがった見方をされて、かえって評判を落とすことになりかねない。  だからこの週末、「フォルテ」が初夏のワイン祭りと銘打ってワインを全品一割引きで提供するという情報を得ても、雫は打つ手もなく黙っているしかなかった。     
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