ふれずともぬくもれ今だけは

5/6
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
 二人は近くのフードコートへ入った。  サナが自分の赤い長財布を取り出し、コーヒーを二つ買った。  手近なテーブルに二人で着いたところで、カケルがサナの落した財布を取り出し、差し出した。  薄く、黒い革の、二つ折りの財布。カケルも美術室で見つけた時、一目で男物だと分かった。 「これ、彼氏のですよね」 「うん。おととい、あたしの部屋に忘れて行ったの。これサブの財布で、なくても当面大丈夫だって言うから、次に会う時に返そうと思って持ち歩いてたんだけど、美術室に落としちゃったのね」  サナに恋人がいることは、美術部では周知の事実で、カケルもとうに知っていた。  決して手に入らないと諦めていたはずの人なのに、なぜ嫉妬などという都合のいいものが巻き起こるのか、自分でも分からない。  厄介なことに、それは分からないなりに制御できるほど、淡い想いでもなかった。しかし、だからと言って、正しいわけでもない。  全て分かっている。分かった上での暴挙は、こんなにも醜いのに、どうして大切な人に向けてしまったのだろう。  ――分かっていないじゃないか。何も分かっていない。 「すみませんでした」  周囲を行く人々の喧騒の中、自分の声だけは、カケルにはひどく明瞭に聞こえた。 「お財布返してもらったら、ここにいる理由なくなっちゃうね。……今日、楽しかった。本当だよ」  そう言って、サナが黒い財布を受け取り、バッグにしまう。  カケルはまだ視線を上げられず、テーブルに置いた紙カップの中でコーヒーに小さな波が立つのを見て、サナが立ち上がったことを知った。 「辛かった?」  視界の外からの声に、カケルがせめてもの思いで首を横に振る。 「ごめんね」  そう言って屈みこんだサナの顔が視界に入り、カケルは初めてサナが微笑んでいることに気づく。 「先輩、おれ、」 「またね」  穏やかに囁いて、サナはそのまま去っていった。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!