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すばやく左右に視線を走らせると、いつの間にか影は床に倒れている本体の傍に膝をついていた。覆い被さるようにして、浅葱先生の顔を上からのぞき込んでいる。
「本当に、いいのか……?」と頬をさすりながら、優しく問いかける。
浅葱先生がゆっくりと瞼を持ち上げ、影と目を合わせた。影は浅葱先生の瞳の奥を見つめた。そして揺れるロウソクのようにまだ弱々しい火が、それでも灯っているのを認めると、迷いなく自分の胸に手をつっこみ、何かを掴みだした。そして浅葱先生の手に握らせると、初めから誰もそこにいなかったように消え去った。
浅葱先生は胸の上に握ったこぶしを乗せた。
『それは何ですか?』
「これ……? ああ……。ははっ。こんなものを後生大事にしているなんて、笑われてしまうな」
そう言いながら、浅葱先生は起き上がり、固く握った手をゆっくりと開いてみせた。手のひらの上に乗っていたのは、なんの変哲もない、ただの消しゴムだった。青いボーダーの柄のカバーがかかっている、定番の消しゴムだ。しかも消しゴムの端っこが黒く汚れていて、使いかけであることがわかる。
「これね……、昔、流行ったんだよ」
浅葱先生は目立たないように、静かに立ち上がった。そして消しゴムのカバーを引き抜いた。
「もらったんだ。初めて担任を持ったクラスの卒業生に。あの子達全員の名前とね、僕の名前が書いてあって。二十年後に会いに行くから、きっと忘れないで、って書いてある。消しゴムに書いたんだから、ちっちゃい字でね。それに日付と曜日もね、調べて書いてあるんだよ」
浅葱先生は目をこすった。
「願い事を書いてある消しゴムを使い切ったら、その願いが叶うっていうおまじないだ。私に使わせようとしたんだね。おまじないの事は何も知らされなかったから、最初気が付かなくて、使っていたんだ。それで消しゴムが小さくなってきたから、カバーをずらそうとして、文字に気が付いた。それからね、使えなくて。ずっと大切に持っているんだ。」
『この日付の日に、その子達に会ったら消しゴムを見せようと思ったんですか?』
「いや、あの子たちに胸を張って会える教師になれたら使おう、会う日までに、生徒と誠実に向き合う教師になろう、そう思ってね」
なれなかったけど、と浅葱先生はカサついた声で付け加えた。
『おや、もう教師をお辞めになるのですか?』
私はステージに立つ三人に目を向ける。
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