『キラルの世界』

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 「あ……。サカイ君のお母さん。はい、今日の部活は休みだったんです」  奏多の影が口から出まかせを言ってごまかす。影は黒目も揺らさずに嘘をつく。目的のためには、なんの躊躇も罪悪感もなく嘘を吐くところは、人間と私達影の違いだろう。  「でもさっき、これから部活だって言っていたじゃない……?」  サカイ君のお母さんとやらは、不審そうな表情で言った。  どうやらこのご婦人は、先にキラルの世界に来ていた奏多とも話をしていたようだ。  もともと社交的とは言えない奏多の影は、押し黙ってしまった。サカイ君のお母さんは奏多の影の顔をのぞき込んだ。探るようなその視線から逃げるように目を逸らし、影は一歩あとじさった。  誤魔化そうと一来が口を開きかけた時、エナンチオマーであるサカイ君のお母さんが笑った。笑って笑って笑って……、どこまでも唇が横に引き伸ばされていく。頬を裂いて耳の近くまで広がった真っ赤な唇は嬉しそうだが、笑顔には見えない。  「そうか……、わかったわ。あなた達、リアルの住人ね? どこから来たの? ここは危ないから、早く帰った方がいいわよ。ほら、一緒に行ってあげる」  「いえ、ちょっと用事があるので……、ほら、行こう」  一来が奏多の影をかばうように割って入り、立ち去ろうとした。  「待ちなさい! 扉はどこ?」  先ほどまでの猫なで声をかなぐり捨て、ひび割れた声で怒鳴った。支え持っていた自転車を地面に投げつけ、一来に掴みかかってきた。
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