『キラルの世界』

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「なんでだよー、フラーミィ。時間がないんだろ?」  一来が喉をさすりながら、恨めしそうに抗議する。相変わらず一来は面白い。笑いをこらえて説明する。  『急いては事をし損じる、ですよ、一来。あれを見てください』  フェンスの網に指を絡めている奏多を指差す。  奏多が見ているのはエナンチオマー達なのだが、見ただけではリアル世界と何も変わらない部活動風景だ。  プールを見つめる奏多の表情は、どこか必死で苦しそうにさえ見える。  「確かに……。今、声をかけてもすんなりとは帰りそうもないね」と紅霧が言う。  奏多の視線の先にはエナンチオマーの奏多がいた。  ぴったりとした競泳用の水着は、紺色で脇と肩に黄色いラインが入っている。  むき出しの足は太くはないが、しっかりとした筋肉がふくらはぎに付いていて、足首がキュッとしまっている。アスリートの足だ。そしてリアルとは反対側に痣があった。  水泳部員たちは順番に台の上に乗り、プールに飛び込むスタートの練習をしているようだ。次々に水に向かってジャンプし、そのたび水しぶきがあがる。  奏多の順番が来た。美しい放物線を描いて、水面に向かって飛ぶ。シャンッと水をきる音がして、指先が水面に吸い込まれると、追いかけるように頭、体、足がほぼ同じ位置に着水して水の中にすべりこんでいく。  腰から下だけで水を叩くように泳ぐドルフィンキックを数回うつと、ぐんっと進みながら浮上した。さらに手で水をひとかきふたかきしてから、プールサイドに寄る。  奏多がプールの縁に手をかけて水から上がろうとすると、奏多の前に飛び込んだ友達が奏多を引っ張り上げ、一緒にプールサイドを笑いながら歩いて行った。    「へえ……。上手いじゃない!」  「奏多は関東大会に出場が決まっている。泳いでいるときの奏多は、誰よりも綺麗で誰よりも強い」  これまでのピュリュの聞き取りにくい小さな声はなりをひそめ、くっきりした声が響いた。  主人はふっと口元を緩めると、なんでもないことのように「そうなんだ」と相づちをうった。
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