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ずるっずるっと何かを引きずる音がして、誰かの家の車庫から、奇妙な形の人間が姿を覗かせたのだ。
「キャアアアアアア!」奏多が悲鳴をあげる。ピュリュがその腕をひっぱり、自分の後ろに隠す。
「見るな、奏多」
足が奇妙な角度に折れまがり、歩けるはずがないのに、全身を揺らしながら近寄ってくる。体を二つに折り、顔だけをこちらに向けている。口が裂け黒目が縮んで上転している。異様な見た目に不釣り合いな花柄の普段着が違和感を醸し出している。
「その服……。さ、酒井君のおかあ……さん?」
ピュリュの後ろから覗いた奏多が、呆然とつぶやく。
「そう! 酒井君のお母さんだよ!」
酒井君のお母さんの後ろから、エナンチオマーの冬矢が姿を現した。酒井君のお母さんと同じように黒目が縮んでいるので、兄弟のようによく似た風貌になっている。奏多がヒクッと喉を鳴らしてピュリュの背中にしがみつく。
「そこで会ったんだ。話を聞いてみたら、ひどいよねえ、酒井君のお母さんの足をこんな風にしちゃったのは、君たちなんだってね? お詫びに僕たちもキラルの扉に連れて行ってよ」
『どの家がキラルの扉かわからないので、待ち伏せされましたね』
私は主人の前に出る。紅霧も一来を背中に庇う位置にすっと移動した。
酒井君のお母さんがジャンプして飛びかかってきた。折れた足が、空中でブラブラと揺れる。上から降ってくる酒井君のお母さんの蹴りを、両手をクロスさせて受け、横に弾く。うっと思わずうめき声が出る。重い!
「黒炎ッ、いくよッ!」
紅霧がアスファルトに膝を着いた酒井君のお母さんに蹴りを放つが、地面に素早く伏せて、避けられる。紅霧はすぐさま上から拳を打ちおろした。しかし酒井君のお母さんが紅霧の拳に拳を正面から打ち返してきた。痛みがないので全力で打ってくる。さすがの紅霧も顔をゆがませる。酒井君のお母さんはただの中年の女性だというのに手強い。影になれない紅霧は押され気味だ。
鏡の冬矢が奏多を捕まえようと手を伸ばしてきたのを、ピュリュが上から手刀で打ち払う。ラベンダーの香りが一気に立ち昇る。そのまま鏡の冬矢に飛び掛かっていきそうだったが、ピュリュまで戦闘に参加しては時間がなくなってしまう。
「早くー!」
スピーカーから響いて来るいつかの声が焦りで泣きそうだ。
『待ちなさい、ピュリュ! 私たちがエナンチオマーを引き留めます! 皆をキラルの扉へ!』と指示を飛ばす。
キラルの扉の位置がばれてしまうが、時間切れになってしまうのはもっとまずい。
「わかった。任せろ」
ピュリュは言葉少なにうなずくと、主人と一来に自分の側にくるよう目配せした。一来がスマートフォンを私に投げてよこす。離れてしまうと状況が分からなくなるのでいい判断だ。
紅霧と私で、冬矢と酒井君のお母さんの視線を戦闘に引き付け、人間たちが逃げ出す時間を稼ぐのだ。
(おそらく倒しきれない……。危険だがぎりぎりまで引き付けて、奏多の家に走り込みキラルの扉を通って鏡を抜けるしかないだろうか? しかし追いかけてきたエナンチオマーが扉を抜けてしまったら……)
迷っていると胸ポケットに入れたスマートフォンからいつかの声がした。
ーー扉が……、閉まるのが止まらないーー
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