『キラルの世界』

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 首をねじって下を見下ろすと、狭い扉からエナンチオマーの冬矢が体をねじ込んでいる。  冬矢の制服の中で泳いでしまうほどの細い四肢を思いだした。酒井君のお母さんの指が扉にかかった。指に力がこめられ白くなる。扉をこじあけようとしているのだ。  冬矢が扉を抜けると、バンッと大きな音をたてて閉まった。酒井君のお母さんの指が扉に挟まってちぎれ、鏡の破片になって砕けて飛び散った。  扉の向こう側に生まれたブラックホールが、キラルの世界を飲み込み始めた。キラルの扉もあめ細工のようにねじれ、いとも簡単につぶれて吸い寄せられていく。  扉が消え失せてしまうと、ブラックホールは威力を増し、勢いよく奏多の部屋中のものを吸い込み始めた。  酒井君のお母さんの指だった鏡の破片がカタカタと揺れ始め、扉だった真っ暗な空間に飲み込まれて消えた。そして机の上のペン立てが倒れ、シャープペンシルやカラーペンが飛んで行く。スリッパが床の上を転がりながら扉に引き寄せられていく。はじめは軽い物から、そして徐々に重さのあるものを。  ついに登っている足場がガタガタと揺れる。エナンチオマーの最後の生き残りになった冬矢は、ブラックホールが空気ごと空間を吸い込んでいく風に抵抗しながら、私の下に積まれている足場を登ってくる。
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