エナンチオマーを探せ

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エナンチオマーを探せ

 古文は私の好きな授業の一つだ。特に今日は「伊勢物語」の初回の授業のため、先生が教科書の文章を通して朗読している。句読点がないせいなのか、言葉というよりは調べに近い。  「伊勢物語」の中では、主人公がちらりと見かけただけの女性に、狩衣の裾を切って恋文を書き送っている。なかなか情熱的であり、まれに見る行動力だ。  現代ではスマートフォンという文明が発達しているので、SNS上でのやりとりからの探り合いを足がかりにするようだが、昔は探りあいなどせずにアプローチするのが普通だったのだろうか?   ぜひとも男性教師の見解を聞きたいところではあるが……仕方がない。優秀な捜査員であるマミにも出来ないこともある。私は奏多に会いに行くことにした。ピュリュが犯人ではないことはわかっているが、奏多に聞きたいことがあるのだ。主人の傍を離れるのも気が進まないが、授業中は人目もある。エナンチオマーが何を企んでいるにせよ、手を出しにくいはずだ。  それに六時限目の最後まで授業を聞いていては、中学の終業時間に間に合わない。中学三年の奏多は夏で部活を引退したので、授業が終わればすぐに帰宅するはずだ。奏多が帰宅し、主人が授業中であるこの時間が一番安全なのだ。  未だ続いている「伊勢物語」の朗読から気持ちを引き剥がし、やむなく主人から離れる。主人がチラリと視線をよこしたが、またすぐに机上の教科書へと視線を戻した。好きにしていい、ということだと判断し窓の隙間から外へ出る。木々を抜けてきた風が気持ちいい。  指を鳴らしてマミを呼び寄せ一言二言指示をする。マミは丸い瞳の色を変えて承知の意を示すと、するすると壁を歩き、窓の隙間から教室に戻っていった。
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