腹が減っては

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『まあまあ、アイラ落ち着いて。一来へのお仕置きは、またゆっくり検討しようよ。  確かに紅霧の提案通り、奏多の説得でもし冬矢が報復を諦めてくれたら、黒の鏡に黒いマナを貯めることが出来なくなるよね。だけど説得するためには、黒の鏡を逆にこちらが奪わないとダメだし……』  主人と一来の様子に気が緩み、うっかりチビアイラの声のまま、仲裁に入ってしまった。案の定、紅霧がクスクス笑う。しかし追及することなく答える。 「黒の鏡を奪うのは難しいだろうね。エナンチオマーが肌身離さず持っているはずさ」  紅霧は紅い唇をチロリと舐めた。人差し指を顎にあて企みを帯びた唇で笑う。 「だけど、鏡の中にいる本体は、怪我をしているわけじゃないんだ。一来の精命を浴びるほど鏡に取り込んだんだから、すでに回復して目を覚ましているはずさ。  つまり叫べば声が聞こえる。エナンチオマーが鏡を持ち歩いていることを逆手に取るって寸法だ」 「声は部活で鍛えているから自信ある!」  奏多が選手宣誓するように右手をあげて言う。  いつかがうなずく代わりに、カニの指をクイクイッと二回曲げて「まかせたっ」と言う。 「でも安心して、奏多ちゃん。危ない時は私が守ってあげるからね!」 「はい、いつかさん!」と素直にうなずいている奏多の横では、一来が眼鏡の奥の目を控え目に見開いていた。  「あのね、いつか。フィンガークォーツは言葉を強調するときに使うんだけど、皮肉で使うこともあるのよ。例えばいつかが奏多を……“守ってあげる”んだね ってすると……」  主人が真面目な顔で解説すると、一来がブッと吹き出した。 (へーえ、いつかが奏多を”守ってあげる”ねえ……? できるのかなあ?)という皮肉めいたセリフが聞こえるようで、思わず笑ってしまったのだろう。  「もう、アイラちゃんも一来くんも、ひどいー」といつかが頬をふくらませる。  確かに動くとすぐに息が切れるいつかよりも、水泳選手の奏多の方が間違いなく体力はありそうだが、「守ってあげるのー!」となおも言ういつかの目は本気だった。時に人間は客観的な戦闘力の優劣に関係なく、誰かを守ろうとするものらしい。  「ゴメンゴメン。単純に強調で使うこともあるんだろ? なんか“コレ”」と一来はフィンガクォーツを使ってみせる。 「元気になるし、仲間内のハンドサインということで」  笑ってしまった一来が慌ててそう言うと、いつかと奏多が嬉しそうにうなずいた。主人はちょっと肩をすくめて、まあね、とちらりと笑った。  やや子供っぽい取り決めが可愛らしい。私はくすくす笑いがもれそうになるのを隠すため、立ち上がってデザートを運んで来ることにした。    『ああ、そうそう。ひとつだけ教えてくれる? 奏多』  ドアノブを握ったところで振り返った。皆の目が一斉に私に向く。  『彌羽学園の文化祭に来ていたのは、暴行事件の被害者の他に誰かいた?』  「ううん。誰も。あの三人だけだったよ」
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