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踵を返し、深い森の奥へ立ち去ろうとした刹那。
枝の折れる音を男は聞き逃さなかった。
反射的に廃屋の壁に身を隠し、息を殺して音のする方へと耳を澄ませる。
聞こえる足音は一つ。何も気付いていないのか、広場の方へ真っ直ぐ歩いてくる。
「…誰かいるの?」
どこで勘付かれたか、不安そうな女の声が森に響く。勿論、男は返事をしない。誰もいないと思ったのか、しばらくして女は再び歩き始めた。
広場に出れば嫌でも死体が目に入る。それに驚き、立ち止まった瞬間を狙う。
男は見つからないように、ギリギリのところまで身を乗り出して様子を窺った。
あと三歩、二歩、一歩。
「ひっ……!」
小さな悲鳴と同時に足音が止まった。
ナイフを握り、弾かれたように広場へ躍り出る。
はずだった。
男は一歩踏み出したところで足を止めた。
女は確かに死体を見て戦慄していた。しかし、立っていた場所があまりに近すぎる。
踏み出した勢いを殺しきれなかった男はそのまま女にぶつかり、尻餅をついた女に距離を取られてしまった。
やってきた女の歳は二十代半ばだろうか。黒い髪は茶色というより銀色の色彩で日の光を反射している。癖のあるセミロングの髪は上半分だけ束ねられ、男よりも幾分明るい焦げ茶色の目が男を捉える。ベージュのハイネックの長袖に濃い灰色のパーカをはおり、脚線の目立つジーンズを登山用ブーツの中に入れている。今ついた尻餅以外にも転倒が多かったのか、全体的に土の汚れが目立つ。
「いたた……」
女はよろよろと立ち上がると、体当たりしてきた男の姿に戦慄した。
しかし、すぐに抵抗の姿勢を取り警戒した様子で男を捉える。見た目より肝が据わっているようだが、腰が引けた姿勢では先程の少年と大差ない。
男は今度こそ仕留めんとナイフを構え、振り上げようとした。
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