20区、ベルヴィル

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 八月、午後9時。20区、中でもベルヴィルはまさにパリの中のリトルアフリカだった。入り組んだ通りの奥にアフリカ料理を出すレストランがあった。クスクスは既にパリでは定番だったが、そこではさらにワニやアナコンダ、ライオン、インパラやヌーのようなジャングル版、サファリ版のジビエ料理を提供していた。フーケやタイユバンに行ってはみたものの、緊張のあまり砂を噛むような経験をしたアメリカ人旅行者が大勢詰めかけては、やけっぱちのどんちゃん騒ぎをしていた。その二階の個室が“密売人”たちの商談の場だった。  ジャマラディーン、年は六十才くらい、額は禿げ上がり、残った髪も既に白くなっていた。190センチを超える大男だが、痩せていて骨張っていた。頭は丸く、白人からみると異様に小さかった。長い手足を窮屈に折り曲げ、自分の背の高さを隠しているかのようだった。“密売人”、“ブラックムスリム”という言葉から連想されるような狡猾で非情な雰囲気は微塵も感じられなかった。彼の黒く澄んだ瞳、長い睫毛、厚い唇に囲まれた優しい微笑みはサバンナを悠然と歩く象を思わせた。  その夜、ジャマラディーンがイグレックに提供した商品は、ゴルフボールほどもある大粒の琥珀(こはく)だった。中には数億年前にうっかり松脂に脚をとられ、そのまま埋包されてしまったサソリが苦悶に身をよじったままでいた。他には孔雀の羽、豹の頭部付きの毛皮などだった。それらは闇市ではとても高値で取り引きされるはずのものであったが、これまでジャマラディーンがイグレックに持ち込んできた様々な珍しい商品と比べると平凡だった  二人はもう何十年も商売をしてきた仲だった。そして、いつもひととおりの商品を並べた後に、ジャマラディーンはとっておきの手土産を隠しているのだった。ジャマラディーンはいたずらっぽく、もったいぶって特別のプレゼントを出したものだった。それは、小指ほどの象牙に彫られた信じられないほど精巧なガネシアの像や、クレタ島から出土したという古代ギリシャの陶器の破片などだった。イグレックはそれをまるでクリスマスプレゼントのように楽しみにしていた。だが、この夜、ジャマラディーンにはいつものいたずらっぽい笑みはなかった。
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