20区、ベルヴィル

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 ジャマラディーンの口元は、すでに寂しげな表情に戻っていた。彼は無言でポケットから小さな瓶を取り出した。それは透明でベネチア製のようだったが、ジャマラディーンの大きな黒い手のひらにあるとアラビアの魔法の小瓶のようにも見えた。瓶の口は赤い鑞で封印してあった。瓶の中にはソーテルヌの甘いワインのような琥珀色の液体が入っていた。 「シャネルのコロンか?」 ジャックは笑って冗談を言った。ジャマラディーンも苦笑いをして、その液体の説明をはじめた。 「これは薬だそうだ。それ以上笑うなよ。おれも実はこの薬のことを心底信じてるわけじゃない。ただ、これをおれにくれたのは正真正銘のイスラム教徒だ。おれをだますようなやつじゃない。フィレンツェのベッキオ橋で、ユダヤ人から掴まされるようなまがいものじゃないと、信じている」 そう言いながらも、その時のジャマラディーンには、いつもイグレックに商品を渡すときのような自信がないのは明らかだった。 「わかった。で、何の薬だ?」 「笑うなよ、ジャック。そいつが言うには、これは“不死の薬”だ」 ジャマラディーンは、さらに自信なさげに言った。商品の品質に絶対の自信を誇っていた彼が、最後にありえないようなものを持ち出した。そのことが、二人の長年の信頼関係を一瞬で崩してしまう危険がある、ジャマラディーンにはそれが十分わかっていた。それほど“不死の薬”という言葉には、虚偽に満ちたいかがわしい響きがあった。  もし相手が他の誰かだったら、ジャック・イグレックはこの小瓶の液体が不死の薬であることを一瞬でも信じることはなかっただろう。それどころか、不死の薬がこの世に存在すること、そして神でも悪魔でもない人間が不死になれることも、決して信じることはなかっただろう。もちろん、ジャックはその小瓶の液体が不死の薬であることを信じてはいなかった。それは、ジャマラディーンも同じだったかもしれない。だが、なぜかそれを頭ごなしに否定することができなかった。
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