プロローグ

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 南フランス、ニース、六月下旬。海岸通りを一人の男が歩いていた。四十才か、それより少し若くも見えた。背は高いが痩せた上半身には黄色のポロシャツは不似合いだった。明るい褐色の髪は短くきちんとセットされていた。もともとあまり日にあたることも少なかったらしく、肌はこの数日のニース滞在で、まっ赤に日焼けしていた。長い足の先に履かれた茶色の靴は乾いた砂埃でくすんでいた。    旧市街を背に、左手には紺碧海岸(コートダジュール)が広がっていた。午後8時を過ぎていたが、空はまだぼんやりと暮れ(なず)み、乾いた風が心地よかった。男の歩調はゆっくりで、傍らをローラーブレードの若者や、元気いっぱいの犬を連れた白髪のご婦人が、ぐんぐん追い抜いて行った。 「ジャック・ラッセル・テリア、イギリスの犬だ」 彼は小走りに駆け抜けた犬に向かってつぶやいた。  この通りは通称「英国人の散歩道(プロムナード・デザングレ)」と呼ばれる。男はイギリス人。長年のフランスと母国の歴史的な対立や欧州連合におけるお互いのライバル意識のため、この国は彼にとって何かと居心地悪かった。しかし、彼の家族、特に彼の妻にとってはそうではなかった。  ロンドンで彼女が料理を習いはじめたのが、今回のニース滞在のきっかけだった。彼女はフランス料理とワインに興味を持ちはじめると、急激にフランスにかぶれはじめた。やがて年頃になりつつある娘と結束し、休暇をドーバー海峡の対岸にあるきどった国で過ごすことを提案したのだった。いかにイギリス男性がフランスという国に好意を持たなくても、世界中の女性のフランス文化への傾倒は無視できるものではない。妻にとってフランスはアラン・デュカスやヴーヴ・クリコの国であり、娘にはエルメスやルイ・ヴィトンの国なのだ。彼女たちの間ではもはや「バカンス」と呼ばれるようになった休暇(バケーション)をパリとニースで過ごす計画が二対一の多数決で可決された。妻と娘は、曇りがちなロンドンでは決して似合わないシャネルの帽子をかぶり、たっぷりと日焼け止めを塗って、ニースやカンヌ、モナコの町を連日飽きることなく歩き回った。
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