モンマルトル、クリシー

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「ジャック・イグレック!」 突然自分の名前を呼ばれて、イグレックの白日夢は霧と消え、彼の意識はベルヴィルのアフリカレストランの二階から、モンマルトルのカフェに引き戻された。 「遅れてすまない。自分で呼びつけといて、そんなにびっくりするなよ。寒い朝だな!こんな朝早くから呼び出しだなんて、いったいどうした?」 男が早口でまくしたてながら、どんどん近付いて来た。 「やあ、セキ。おはよう、ぼんやりしてた」  セキと呼ばれた男は、イグレックの前に座って、カフェオレを注文した。セキは日本から来た海洋学者だった。フランス人の持つ日本人のイメージ、勤勉で神秘的で無口で面白みのない、セキ氏はそういった日本人像とは、まるでかけはなれていた。粗野でくったくがなく日に焼けて大柄、銀縁の眼鏡は学者風というより、どう猛なシュモクザメのようだった。貿易商と海洋学者、海の男どうしの二人はよく気があった。 「ジャック、頼まれたものは一応持って来た。ただ、これはかなりヤバイ代物だぞ。本当に必要なんだな?」 「ああ、すまない。迷惑かけたな」 「そりゃそうさ。成人数人分の致死量のテトロドトキシン、持ち出しただけで首が飛ぶぞ」 そう言うと、セキは鞄から小さなガラスのアンプルを取り出した。紙のシールが張ってあり、手書きでテトロドトキシンを表すTTXと書かれ、毒薬を示す小さな骸骨のマークがフリーハンドで書かれてあった。テトロドトキシン、日本のフグの肝臓などにある猛毒である。セキが研究に使っているものを、イグレックが無理に譲ってもらったのだ。 「いったい何に使うのか説明してほしいな」 セキは尋ねると、音をたてて熱いカフェオレをすすった。 「先日、ある金持ちのクライアントからの依頼があった。大ワニの皮がほしい、しかも、頭付きの全身の皮を、虎や豹のラグみたいに床に敷きたいとのことだ。浴室にな」 「ふうん、金持ちの欲しがるものは想像がつかない」 「ただ、その皮に傷一つついていたらだめなのだそうだ。つまり、銃や銛はおろか、麻酔銃の痕も気にくわないらしい。だから、口からエサにまぜて食わせる、暴れて傷が付かないように即効性のある、しかも5メートルもある大ワニを昇天させることができる毒が必要なんだ」 「この量のテトロドトキシンなら、1トンのワニでもあっという間に死ぬよ」
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