モンマルトル、クリシー

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 二つの瓶を前に、イグレックは考えていた。自分は生きたいのか、死にたいのか。いや、生きようとしているのか、死のうとしているのか。生きていることに疲れたのか、死ぬことが怖いのか。生と死は二つの瓶に象徴され、彼の前に現実のものとして存在した。不死の薬は神秘的で美しく、死の薬は現実的だが、手書きの髑髏マークがコミカルでもある。本来、生きていることこそ現実であり、死はもっと厳粛なものではないのか?ジャックはまた苦笑せずにはいられなかった。  彼の目の前にはもう一つの液体、茶色に濁ったエスプレッソがあった。彼はいつもエスプレッソの苦みをやわらげるためにノワゼットで飲んだ。エスプレッソに少量のクリームを入れるのがノワゼット、イタリアでいうマッキアートである。イグレックは残りを一気に口に入れた。あんなに火傷しそうに熱かったノワゼットはすっかり冷めてしまっていた。そして、一口めに感じた苦みや甘みの対立はなく、その味はすでにまろやかに溶け合っていた。時間、もしかしたらすべての対立は時間がたてば溶け合っていくものなのだろうか。生と死が対立しているのも、いずれ年を重ねれば次第に両極をなすものではなく、一つの老いた肉体に収まってしまうものなのか?  しかし、そのときのイグレックに、年をとるのを待つ余裕はなかった。彼の中では生と死どちらにも強い憧憬があり、その二つは強く反発していた。
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